情報の読み方。真実は1つではない。

世間の関心を引くため、複雑な出来事でも単純化して、「正義VS悪」の二項対立にしてしまうニュースや情報が多いように感じます。

例を挙げると、「知事 VS 既得権益を得ている人達」「SNS VS マスコミ」「ウクライナ VS ロシア」「イスラエル VS パレスチナ」「アメリカ VS 中国」など。

それぞれの情報がどのような意図で作られ、どのような背景を持った人が発信しているのか、情報に対しては常に批判的な視点を持ち合わせながら、様々な角度から考慮する必要があると感じます。

といっても情報洪水時代の今、他者の思惑にコントロールされないようにするのも、なかなか難しいものです。

しかし、以下の2つを認識しておくだけでも情報の読み方が変わります。

以下の2つは、ニュースや情報の読み方だけではなく、身近に人間関係の問題が起きた際の判断の一助にもなるのではないでしょうか。

 

【事実と真実の違いを認識する】

事実と真実の違いをご存知でしょうか?

辞書で調べると、【事実】実際に起きた事柄。【真実】嘘いつわりでない本当のこと。とあります。

一番の違いは「事実」は客観的な視点であるのに対し、「真実」はその事項に対する主観的な解釈が入るということです。

例えば「女性が笑っていた」は事実。「大変美しい女性が高飛車に笑っていた」は真実。しかし、この言葉の発信者にとっては真実であっても、他の人の目から見れば美しいわけでもないし、高飛車にも見えないかもしれない。これが事実と真実の違いです。

事実は1つであるのに対し、真実は人の数だけあるということです。

 

【真っ白・真っ黒な人なんて存在しないと認識する】

近年の風潮として、「正義VS悪」の二項対立の構図にしてしまう情報が多いように感じます。

しかし正義の反対は悪ではなく、また別の正義なのかもしれません。戦争なんて特にそうでしょう。

また完全に真っ白、真っ黒な人なんて存在しないと私は思うのです。

人それぞれグラデーションの違いはあるけれど、人も物事も世の中も皆グレー。

白に近いグレーの人の黒い部分だけにスポットを当てて悪人に仕立て上げたり、逆に黒に近いグレーの人の白い部分にスポットを当てて善人に仕立て上げたり、情報の出し方でそういう風に見せる事は可能なのです。

人は多面的であることを認識しておけば、「この人は悪人?善人?」という単純な分け方で人を見なくなります。

 

【真実は1つではない】

歴史は勝者によって書き換えられると言われますが、まさにその歴史は「事実」ではなく、「ある人の視点の真実」にしか過ぎないことが多いです。

同じ出来事でも異なる解釈があり、例えば日本を統一することにより戦乱の世を無くすという大義を掲げた織田信長や豊臣秀吉、徳川家康は戦国時代の英雄とされていますが、これも信長公記⇒太閤記⇒大日本史&本朝通鑑などの書き換えられた痕跡が後世になって多数発見されています。

また彼らの敵対者であった武将たちからは、平和を犯す侵略者としか見なされていませんでした(諸説あり)。

また、第二次世界大戦における日本の行動も、欧米列強のアジア植民地化を防ぐため大東亜共栄圏の構築を目指したとされる一方、欧米列強側からは侵略ではなく民主化を進めるためであって、日本は単なる軍部の暴走と我欲だったと見なされています(諸説あり)。

このように、歴史の解釈は視点や文化によって大きく異なることがあります。

 

真実は1つではないと感じた個人的な話も綴ってみます。

母は私が高校生の時に病死したのですが、私にとって母の死は、私と母とのきずなを断ち切る刃物のようなもので、私に深い悲しみと喪失感を与えるものでした。

しかし伯母(母の姉)にとって妹の死は、妹を長年の苦しみから解放した「救済」のようなものでした。

どちらも真実なのです。大人になれば充分理解できました。

しかし私と伯母それぞれの真実の違いから、当時の私は齟齬を感じたり反感を持ったりしたのですから、人間関係、果てはその先にある社会を平和に築くことはいかに困難か分かります。

 

真実は一つではなく、さまざまな視点や解釈が存在すると思います。

歴史の解釈、個人的な経験、そして各メディアの影響など、私たちが日々接する情報や出来事には多様な「真実」があるように思います。

嘘ではなく真実を言い合っていても、食い違ったり、争いが起きたりします。

事実は1つでも真実は1つではない。そして人や物事は多面的であるということを頭に置いておけば、情報や人や社会を多角的に見る視点が備わっていくのではないでしょうか。