今回のブログは、私が中学3年生の時から40年以上に渡り、兄弟以上に濃い付き合いをさせていただいている石井兼輔先輩(国際武道大学 武道学科 教授)と、その母について書いてみようと思う。
先輩との出逢いは時代を溯ること昭和53年9月、私が中学3年生の時に進路先を決めるため、奈良県天理高校柔道部の練習に学校訪問を兼ねて参加させていただいたことが始まりであった。
3日間の予定で参加させていただき、宿舎は柔道部の寮であった。階級(重量級)が近いという事で、石井先輩の部屋にお世話になることになった。
石井先輩はデカい私よりも更にタテにもヨコにも大きな体格(187cm115kg)なうえ、肌の色が褐色だったので(実は地黒の上に日焼けだった)、初めて先輩を見た私は、外国人かと思い一瞬身構えたのであった。
1日目の練習が終わり、風呂や夕食の後に寮の部屋で石井先輩が初めて掛けてくれた言葉は、
「入学を止めておくなら今の内やぞ!厳しさは想像以上だぞ!」であった。
私は「同じ柔道をするなら日本一の学校で頑張り、男になりたいと思います。実はもうこの学校に決めています!」と答えると、
先輩は「そうか!分かった!覚悟の上やな!?来年4月に待ってるわ!」と返してくれた。
翌年4月になり予定通り入学し、寮は石井先輩と同じ部屋になった。
練習の厳しさは、先輩が忠告してくれた通りに想像を超えたものであった。
入学して2週間くらい経過したある日の夜、思いつめた私は先輩に、
「今日で学校を辞めます。今夜、夜の内に寮を脱走して、暫く大阪のミナミあたりでバイトしながら身を隠します。」と打ち明けた。
当時は至極本気であった。
すると先輩は「お前のいう事は良く分かる。俺も同じ気持ちやった。しかしなぁ俺は、母子家庭で必死に育ててくれた母と、可愛がってくれた祖父母に恥はかかされへんのや!日本一の錦を飾るまでは故郷の淡路島へは帰られへんのや!お前も覚悟を決めてココに来たのとちゃうんか?男になりたいと言うてたやないか?」と私を引き留めてくれた。
それでも辞めたい一心だった私は納得せず返事を躊躇していると、
「人前ではダメだが、部屋の中では俺の事を先輩と思わんでええから、もう一度頑張れ!そしたら少しは気が楽やろ?」と言ってくれた。
ここまで言ってもらえると、もう返事は「はい」しかなかった。恥ずかしながら先輩の思いに涙が出た!有り難かった。
お言葉に甘え、その日から敬語を止めて自分をさらけ出し、先輩を先輩とも思わぬ無礼な態度をとり、時には自作したアダ名で先輩を呼ぶことさえあった。笑
しかし先輩は「部屋の中では俺の事を先輩と思わんでええ」の言葉通り、大きな肉体に似つかわしい大きな度量で、私の友になってくれた。
おかげで寮の部屋は、私が心の底から気を緩めることが出来る数少ない場所の一つになった。
しかし寮の部屋を1歩外に出ると先輩は先輩に戻り、そして練習に関しては情け容赦なく厳しかった。
そんな先輩に反感を覚え、柔道場で本気の火花を散らすことも度々あったが、部屋に戻ればまた親しみ深い友として接してくれるので、昼間の火花はあっさりと消えてしまうのであった。
その石井先輩の母もまた、こっそりと私に手を差し伸べてくれた。
入学して1か月目の頃、父兄参観があった。その後に先輩のお母さんが、私に声をかけてくれた。
「君が後輩の立花君やな。うちの息子が無理を言うたり苛めて来たら、すぐに電話しといで」と言って電話番号が書かれ紙を手渡してくれたのである。嬉しかった。
その時「兼輔には秘密やで」と言われたので、私がこの話を先輩にしたのは20年以上後の、お母上が亡くなられた時の通夜の席であった。
私の話を聞き終えると先輩は「お前があまりに酷いので俺はオカンによく愚痴をこぼしていたんや」と目をしばたたかせた。
高校時代も卒業後も、先輩が淡路島に帰省するのに便乗して私もよくご実家にお邪魔した。
お母上はいつも飛び切り新鮮な魚を捌いて、手料理を振舞ってくれた。焼き網の上の切り身がピクピク動いていたことを覚えている。
海が時化て良い魚が手に入らなかった時は寿司屋に連れて行ってくれて、「木札の端から端まで全部、1人2貫ずつ、この子達に握って!」と言ってくれたこともあった。
2年間、柔道部の寮でともに暮らしたことで兄弟のような関係になった。
今でも週に1度、石井先輩とは用も無いのに電話で話す。
きっとこのブログも見るだろうから小っ恥ずかしいが、たまには感謝の意を表してみた。
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