ー2016年ー
2016年
12月
28日
水
天才たち
今回のブログが2016年の締めのブログとなります。
本年も多くのご厚情を賜りました上にも、格別のお引き立てを頂戴いたしまして誠に有難うございました。心より御礼を申し上げる次第であります。深謝!
来る2017年も益々の精進を重ねる覚悟でございます。
重ねてのご指導・ご厚情の程、よろしくお願い申し上げます。
エジソンの『天才とは、1%のひらめきと99%の努力である』という言葉がある。
努力が最重要だという事を説いた言葉のように伝わっているが、実は、それは誤訳で、本来の意味は「1%のひらめき」の重要性を説いた言葉だったらしい。
「持って生まれた天才としての素質が無ければ、どれだけ努力しても天才になれない」ということだと私は解釈している。
ところで私の人生を振り返ってみると、それぞれの年代ごとに、天才と呼ばれる人たちが身近にいた。
当時、神童と呼ばれていた小学校のクラスメイトは、某国立大学を卒業し、現在は製薬会社で世界的な薬の研究員として活躍されている。
天才と呼ばれていた中学校のクラスメイトは、その後、独学でコンピュターソフトを2,000本以上開発した。
高校時代は柔道をしていた関係で、のちに五輪の金メダリストや世界選手権や日本選手権の覇者になった天才が同窓に、あまた居た。
私は、元来 負けず嫌いの性格であるために、彼らが周りの人たちから「天才」と賞賛されるのを目にする度に、密かに悔しい思いをしていた。
小中学校時代は、ただ漠然とやっかむばかりであったが、高校時代の柔道については、努力を積み重ねれば積み重ねるほど、薄々と、そして次第に切実に、天才との差を思い知らされた。凡人の私が血の滲むような努力をして得た技を、天才は1日2日で習得した。
サラリと追い抜いて行かれる度に、「凡人の限界値」を鼻先に突きつけられているような気分であった。
例えば高校野球で日本一のチームになったとしても、プロ野球に入ることが出来るのは、チームの中の天才だけ。「私は、そこへ入る事は出来ないだろうな」と、諦念や嫉妬が何かある度に湧きあがった。
17歳の冬に、とある経営者の方と出逢える幸運に恵まれた。
この方を、その後38年間、現在進行形で師事させて頂いている。
最初に師匠に出逢った瞬間から、昂揚し、胸が一杯になり、全身全霊で憧れた。
出会った当時、師匠は社員100名ほどの中小企業の社長であった。
しかし事業を一つまた一つと成功させ、会社を成長させ続け、株式を店頭公開し、その後、東証二部に上場、その1年後には東証一部に上場し、社員数 約6,600名の誰もが知る大企業へと会社を成長させた方である。
そう、私が出会った師匠は、「企業経営の天才」だったのである。
私は今まで天才と出会う度に、努力してもしても超えられない「凡人の限界値」を思い知らされ、やっかんでいた。天才と自分を比べるたびに、諦念が顔を出した。
しかし、師匠という企業経営の天才に出会ってからは、
「天才と同じ場所に立てないからといって諦めたくない。たとえ100分の1でも、それがもっと少なくても、ほんの少しでも努力して近付きたい。」と思うようになった。
冒頭でエジソンの言葉の真意を
「持って生まれた天才としての素質が無ければ、どれだけ努力しても天才になれない」と書いたが、べつに、天才になれなくたっていいじゃないか。
凡人でも努力すれば、望む場所に、たとえ少しでも、今より近づけるはずである。
諦めないことで、はじめて物事は動き出すと思うのだ。
座右の銘である「諦めず気が遠くなるまで繰り返す!」を胸に現在も精進を重ねているが、来年もその先もずっと、目標に向けて、諦めず気が遠くなるまで走り続けて行く覚悟である。
この覚悟を持って本年の締めのご挨拶とさせて頂きます。
ありがとうございました。
2016年
12月
18日
日
良いじゃないか!「させていただきます症候群」
「させていただきます症候群」というものがあるらしい。
「させていただきます」を過度に使う人を総称して、「させていただきます症候群」と呼ぶらしい。
例えば「お送りします」を「お送りさせていただきます」だったり、「休んでおります」を「休ませていただいております」という風に言ってしまう人たちの事らしい。
その話を聞いた時、私はドキリとした。
なぜなら私自身、思いっきり「させていただきます症候群」に該当していたからである。
それ以降は、出来る限り気を付けるようにしていた。
話は一旦逸れるが、今年の夏、母校である天理高校から、卒業生向けの会報誌に寄稿して欲しいとのお話を頂いた。
その原稿を書く際も、させていただきます症候群に気をつけて書いた。
秋になり、会報誌が届いた。
卒業後、毎年届いていた会報誌であったが、くまなく目を通したのは、この時が初めてであった。
驚いた!!
させていただきます症候群だらけなのである。
「学ばせていただき」「気づかせいただき」「受賞させていただき」「働かせていただき」といった風である。
しかし、そこに掲載されていた、癌を克服された女性の一文で、私はハッと気づかされた気持ちになった。
『生きているのではなく、生かされているということに気づかせていただいた。』
生きることが出来るのも、気づくことが出来るのも、自分1人の力ではなく、天や周りの人々からの力添えがあるからだ、ということである。
つまり「させていただく」という言葉の中には、「感謝の想い」が含まれているのである。
感謝の想いがあるから、「生きている」ではなく「生かされている」であり、「学ぶ」ではなく「学ばせていただき」であり、「気づく」ではなく「気づかせいただき」であり、「受賞し」ではなく「受賞させていただき」であり、「働く」ではなく「働かせていただき」と、寄稿した同窓の皆さんは表現していたのである。
昨今の、揶揄に近いような「させていただきます症候群」を気にしていた自分がバカらしくなってしまった。もちろん、実体のない、都合のいい記号になってしまってはいけないが、感謝の想いを伝えたい場面でも、多用することを嫌って「させていただき」を削っていたのが、お笑いである。
自嘲したのと同時に、「させていただきます症候群」というものを知るまでは、自分が同窓の皆さんと同じように「させていただきます」という言葉を多く用いていた事実を嬉しくも思った。
私が天理で学んだのは高校生活の3年間だけであったが「何事にも感謝して生きて行く」という精神を教えて頂き、知らず知らずのうちに多少なりとも身についていたのだなと有り難く思った。
2016年
12月
11日
日
電化製品が次々壊れる時
早いもので、今年も残り約3週間。
忙しいながらも、まずまずの師走を送っているが、実は今年の秋はトラブルの連続であった。
まず、毎日のように電化製品が故障した。
故障したものを挙げてみると、事務所の監視カメラ、掃除機、空気清浄器、換気扇、LED電球複数、投光器、カーステレオetc・・・
工場の機械も連続して故障した。
故障した製品の対応に追われる中、毎週のように知人の訃報が入った(3名)。
私自身の注意力も低下していたようで、初めて訪れた土地で車を脱輪させてしまった。同じようなことが社員にも起こった。
両親が相次いで入院した。(現在どちらも退院し快気)
そして私自身も皮膚疾患と背中の痛みが、なかなか治らなかった。
イレギュラーな出来事が続くと嫌なものである。「神社かどこかでお祓いをしてきたら?」と冗談とも本気ともつかない進言が出るほどの有様であった。
しかしもちろん悪いオバケの仕業なんてわけもなく、1つ1つを分析してみると、特別なことが起きたわけではなく、長期的なスパンで考えると誰の人生にでもほぼ確実に起こりうる御馴染みの出来事ばかりである。
それがたまたま今回の場合、短期間に集中して起こっただけである。
運気のバイオリズムは誰にでもあり、幸運な時も低迷する時もある。一生という長いスパンでも、一年、一か月、一日という短いスパンの中にも、幸運な時も低迷する時もある。
あぁ今、運気が低迷しているなと感じた時には、ジタバタしないことである。動揺したり騒ぎ立てたりせず、落ち着いていつも通り、淡々と過ごすのが一番である。
初代「立花屋」の経営者であった私の祖母が、
「そんな時はな、川の底にじっと身を隠して、水面の激流をやり過ごすことが一番や」
と話してくれたことがあった。
また、こんな時は、「警告の時期」と捉えて、予防措置や善後策を講じたり、保守・点検作業を今まで以上に慎重にするなど、次にイレギュラーな出来事が発生した時の為の備えを固めるようにしている。
秋の終わりと共に、激流の日々も去った。
忘れてはいけないのは、あのような運気の低迷期にも、同じ数だけ「幸せな良い出来事」も起こっていることである。
私は経営者として常に感謝を持ちながら、いかなる時でも落ち着いてジタバタすることなく、起こってくる出来事や出逢う人や物に、しっかりと、きめ細やかに、誠意を持って向き合って行こうと改めて思った次第である。
2016年
11月
27日
日
とつぜん勤め先が閉店
先般、「とつぜん繁盛店が閉店」という記事を書いたが、今回は、その続報についてである。
閉店の5日前、たまたま昼食を食べに中華料理店を訪れた時に、突然、閉店の話を聞かされた。
閉店することを教えてくれたのは、そのお店の接客係を(私が知っている期間だけで)約20年担当している番頭格の店員さんである。
いつも身を粉にして働く姿を見ていたので、経営者の親族かと思っていたのだが、そうではなく、いち従業員だった。
「君は、今後どうするの?」と尋ねると
「まだ分かりません。閉店してから身の振り方をゆっくり考えます。」と返って来た。
私は思わず、「これだけ繁盛して、たくさんのお客さんも付いているのに勿体ないな!君が続けてすれば良いのに!」と声を掛けた。
すると「僕は、接客の自信はあるけれど、料理の技術も無いし、資金も無いから無理です。」との答えであった。
その日は、それで終わった。
普段、私の昼食は給食弁当なのだが、例の中華料理店がいよいよ閉店の、その当日は、会社に来客があったので、中華を食べに行くことにした。
食事も終わり、レジで会計の際、くだんの番頭さんと再び話をする機会があった。
彼は、自分がお店を経営するのは、「料理の技術も無いし、資金も無いから無理です。」と先日言ったが、しかし、「門前の小僧習わぬ経を読む」で、約20年間働いているうちに、店の経営の仕方や、人の使い方、店の味、仕入先など、自然と頭に入っているのではないだろうか?
自分が調理出来なくても、味を覚えているのならば、雇った料理人に指示が出せる。
私だって、たとえば毛布の製造販売をしているが、自分がミシンで縫っているわけじゃないし、クリニックを経営しているが、医師と同じ知識を持っているわけじゃない。
資金の面は、賃貸の小さな店から始めれば不可能ではないのではないか?
20年間真面目に仕事をした、その経験の蓄積があれば、他のお店に就職しても即戦力になれるだろうが、自分で経営をするという選択肢もあるのではないか?
・・・というような話を、余計なお節介だろうと思いながらも、つい口にしてしまった。
今思えば、彼の一面しか知らない私がそんな事を軽々しく述べたのは、無責任だったかもしれないが、彼自身が「無理だ」と早々に選択肢を1つ減らしてしまうのが、とても惜しい気がしたのである。
勤め先が突然無くなって、「現在」という枠だけで考えれば、幸か不幸でいえば「不幸」の方かもしれない。しかし、人生のターニングポイントはどこに転がっているか分からないもので、後から振り返ってみれば、不幸だと感じた出来事をきっかけに、人生が良い方へ広がって行くこともある。
店の最終日の、この日、私が店を辞した後に、当社の社員も昼食を取りに中華店へ行ったそうだ。帰り際、くだんの番頭さんから私への伝言を預かって帰って来た。
「丸竹の社長さんの言葉で、開店も選択肢の1つに入れました。」とのことであった。
人生という道には、沢山の岐路がある。
この道が正解で、あの道は不正解、なんてない。
自分が選んだ道を一生懸命突き進んで行くのか、それとも、お座なりに行くのかで、行先が変わって来るのだろうと思う。
2016年
11月
17日
木
常識に囚われるな
「常識」とは変化して行くものである。
この50年間を振り返ってみても、世の中の常識は、どんどんと変化し続けている。
いくつか例を挙げれば、ITの登場で、仕事の仕方、コミュニケーションの取り方も大きく変わった。昔は「運動中に水を飲んではいけない」のが常識だったが、今そんな事を言っていたら笑われる。
「常識」は、国によっても変わるし、地域によっても変わるし、年代によっても変わる。
「常識」を辞書で調べてみると、「健全な一般人が共通に持っている、普通の知識や思慮分別。」と書いてあった。
ビジネスにおいては、この『一般人が共通に持っている、普通の知識』の中だけで事業を行っていれば、月並みの、十人並みの、平々凡々の、魅力の無い会社になってしまう。
そしてそのような魅力の無い会社は、この経済的に厳しい時代には、いずれ赤字、廃業、倒産してしまうのではないだろうか?
ビジネスでは「常識を打ち破る」ことが成長へのカギだと考えている。
たとえば当社から小さな例を挙げると、製造事業部では毛布の製造販売を行っているが、「毛布を毛布として販売しない」ことにより市場が増えた。
具体的に書くと、官公庁向けの難燃毛布を、家具の梱包資材としてロールのまま販売するのである。それにより、引越し業界という市場が増えた。
昨年、開設したフラワーホームでも、過去の常識や価値観・既成概念に囚われない「異業種からの参入」だからこそ思い付く施策と経営方針に基づいて、次々に新しく斬新なアイデアを実施している。
入居者様アルバイト制度>>などは、まさに常識を打ち破るような施策であろうと思う。
常識を打ち破ると言っても、ただ単に、誰もしていない事をすればいい訳ではない。
ビジネスの核部分に、お客様の満足、従業員の幸せや会社の利益、社会への貢献の三方良しがなければ、その施策は発展しないであろう。
2016年
11月
06日
日
とつぜん繁盛店が閉店
本社の近所にあり、よく利用していた中華料理店が、突如閉店した。
約30年近く続いてきたお店で、常に繁盛していたお店である。
市内の官庁街の近くにあり、立地もすごく良いところにある。
現在進行形で繁盛しているお店の突然の閉店であった。
閉店の5日前、たまたま昼食を食べに中華料理店を訪れた時に、そのお店の接客係を担当していた番頭格の店員さんから突然聞かされた。
店員さんいわく、「私も経営者から閉店の知らせを突然聞いたし、閉店の理由も分からない。」「今後、どうするのかも分からない」とのことであった。
経営者が突如として繁盛店を閉めた気持ちを、私は瞬間的に理解できるような気がした。
閉店を決める引き金になった具体的な理由(病気・体力の限界・転居etc)は分からないが、それだけが理由ではなく、複合的な理由であることは想像がつく。
その複合的な理由の中には、長い年月をかけて澱のように蓄積された経営者としての苦悩から来る疲れがあったのは間違いないだろう。
経営者であれば誰しも当たり前の話ではあるが、たとえ繁盛していても常に不安に苛まれて、苦しく様々な葛藤を抱えているものである。
順調であればあるほど、手抜かりがないか?落とし穴はないか?と、暗雲が立ち込めるように不安が追いかけてくるものである。
眠る直前まで仕事のことを考え、夜中にふと目覚めて一番に脳裏に浮かぶのは仕事のことである。
経営を長年維持して行くには、そのために多大な努力を強いられることになる。
前にもこのブログの「仕事は楽しい51% 仕事は苦しい49%>>」で書いたが、自分自身が背負う「責任」を考えると私自身も常に苦しくなる。
しかし経営者として生きるからには、常に責任の重さを感じ、それに苦しみながら生きて行くしかないのである。
しかしその苦しみの上に、他の問題がいくつも複合的に重なり合うと、自分自身の限界を超えて疲れ果ててしまい、閉店・廃業を決めてしまうのであろう。
突然の繁盛店閉店の話が広まるにつれて、地元のみんなは不思議がったり残念がったりしていた。
しかし同じく経営者である私は、この店の経営者の苦悩を想像し、共感し、そして少し考えさせられた。
自分自身に置き換えて考察すると、もし将来、私が経営から急に退くことがあるとすれば、引き金を引く理由は、心理的な事ではなく、体力的な事が原因であろうと思う。
社員の数が増えても、中小企業であるが故、自分自身が最前線で先頭を切って全事業部を統括しながらカジ取りすることになり、毎日が長時間労働である。純粋な意味での年間の休日は10日も有れば良い方である。
こんな生活を体力が衰えた以降も続けるのは難しいであろう。
よって、現在、「100年以上続く企業」を目指して、後継者の育成に心血を注いでいる。
私自身の健康面についても、健康であることも経営者の責任だと考え、細心の注意を払うように心がけている。(詳しく>>)
最後になりましたが、某中華料理店さん
長年に渡り美味しい中華料理を味わわせて頂き有難うございました。深謝
2016年
10月
26日
水
終わりのない挑戦
「絶対無理だ」と最初から決めつけてしまい、本気でプランニングすることもなく、言い訳を考える事からスタートを切り、結局なにも挑戦しないまま、受け身の日々を只々送ってしまう、
そういう時期は、出来事の大小は別にして、時間や体力、精神状態等の如何によって、誰しもこのような状態に陥ることは、スーパーマンでもない限り、現在を生きる通常のホモサピエンスなら必ずあるだろう。
私自身も克己心を持ち、日々精進を目指しているつもりではあっても、受け身で後ろ向きになってしまう日々があることも事実である。
ところで、我々ホモサピエンスは創意工夫を凝らしながら、環境に対する適応性の高さを持って、これまで地球上において、幾多の種に対して自然淘汰を繰り返しながらも、疑いようのない事実として、地球上で最も支配的な種として繁栄を謳歌してきたという歴史がある。ということは誰もが本能的に、迫りくる物事に対する解決能力を最大限持ち合わせているということである。
しかし現実には、世の中があまりにも便利になり過ぎて、その解決能力や適応力が退化し、有るものを有るようにしか使えない、言い方を変えると、閃きが無く応用力が失われてしまっているホモサピエンスが増えてきているように思う。
その結果、違うステージに一歩踏み出すことに、必要以上に恐れを抱いている人が多いような気がする。
考えてみると何かに挑戦を試みた時に、失敗したときのショックは、たしかに大きい。
しかし挑戦を避けていては、成長は無い。
最終的に、その挑戦が失敗に終わったとしても、その経験から得るものはある筈である。
どうせなら失敗を恐れず、「よし!!やってみるか?」というくらいの気持ちで何事にも挑戦して行きたいものである。
ところで、何かを始めようとする時や挑戦しようとした時には、まわりからの反論が決まって沢山あるものである。実際、私がフラワーホームを開設しようと計画を始めたときにも、親身な反論からネガティブな反論まで様々あった。
そしてその時、反論があるということは、自分自身また自分自身が立てた計画がまだまだ未熟なのだと考えて、かなり悔しく思った。
しかしその反面、反論と同じ数だけ賛成してくださる方もあり、特に、師匠である東建コーポレーション株式会社 左右田鑑穂社長は、私の話を聞き終わると同時に、「よし判った!一緒に勉強しながら進めよう」と言ってくださり、平行して東建社内にプロジェクトチームを立ち上げ、設計から運営に至るあらゆる分野のスタッフを派遣してくださった。(詳しく>> )
当社のメインバンクである南都銀行様も、すぐに支援を約束してくださった。
それらが、私の最大のパワーの源になったことは言うまでもない。
不遜な言い方になってしまうかもしれないが、
冒頭で書いたような受け身ばかりの人生を送っている人は、「他人の挑戦」についても後ろ向きで、マイナス思考にただ漠然と、「どうせ無理だろう!?」と否定することから入ってしまう事が多いのではないだろうか?
逆に、人生を挑戦し続けている人は、「他人の挑戦」についても寛容で、「どうすれば、その挑戦が成功するか」から入る事が多いのではないだろうか?
マイナス要素を挙げて否定するのではなく、マイナス要素を挙げて、どうすればそれがプラスに転じ、その挑戦が成功するかと思考を巡らせる。
人生を挑戦し続けている人から発せられる言葉は前向きで、聞いているこちらまでパワーが沸いて来る。
自分自身も命ある限りそうでありたい!
企業経営にゴールはない。
ということは、歩み続ける限り、企業の挑戦は永遠に続くのである。
2016年
10月
15日
土
歓迎!
先般、当社フェルト事業部の部長と福井県敦賀市へ出張に行ってきた。
フェルト事業部として、販路の拡大及び仕入れ先の充実、配送体系の拡充を目指して本年度から取り組んでいる業務促進活動を経営者の立場で側面から応援する為である。
まず敦賀市に到着して、最初に訪問させて頂いたのは、北陸でも有数の規模を誇る運送会社と営業倉庫を経営されている会社の本社事務所であった。
正面玄関を入ると同時に「歓迎!丸竹コーポレーション株式会社様」という、ウェルカムボードが目に飛び込んできた。
それを見た途端、仕事の話を前に引き締まっていた頬が緩むような、心嬉しく温かな気持ちになった。
たったこれだけのシンプルなことだが、 歓迎の意が響くものである。
話が終了した後も、昼食を料亭で御馳走になり、配送センターや営業倉庫を案内して頂いた。
「歓迎!」のボードの通り、始まりから終わりまで非常に行き届いた心遣いをして頂き、深謝した次第である。
その後も数件、福井県内の会社を訪問させて頂き、翌日のお昼には帰路についた。
帰りの車の中で私の頭を占めていたのは、ウェルカムボードのことであった。
帰社後すぐさまパソコンに向かい、1時間ほどで数枚のサンプルを作り、総務の方で清書してもらった。
早速、このおもてなしツールを真似させて頂いたのである。
今回の出張には同行しなかった統轄事業部長に、ウェルカムボードに感激したことを伝えると、彼は既にその存在を知っていて、何度か他社で見かけたと言うので拍子抜けしてしまった。
私は彼に以下のようなことを話した。
「少しでも良いと思ったことは、帰社したら必ず私に提案してほしい」
「良いと思ったことは、費用が掛かってもいいから、すべてチャレンジしてみよう」
「良いと思う事ならやってみて、実行後、たえず見直す事によって取捨選択して行けばいい」
社員が育つにつれ、私が出張に出る機会が減ってきた。
自分自身の情報不足を痛感した次第である。
情報が無いと「ひらめき」は発生しない(詳しく>>)。
無理にでも用件を作ってもっと出歩かなければならない。
そういえば私の頭の中の箱に、最近新しい情報を入れることが出来ていなかったな・・・と反省した。
2016年
10月
10日
月
減点法か、加点法か
とある機械を修理工場さんに出した。
その際、ついウッカリその機会の中に私物を入れっぱなしにしたまま引き渡してしまった。
引き渡しのすぐ直前にもその私物を使い、いつもの習慣でまた同じその機械の中にしまった。
ところが修理工場さんから戻って来た機械の中から、例の私物は消えていた。
すぐさま修理工場さんに問い合わせて、あちこちと調べて頂いたが、結局その私物は発見できないまま終わった。
そこでまず私が最初に思ったことは、修理の工程で邪魔になったため、修理工場の誰かが取り出して、修理を終えた時点で元に戻すのを忘れたのだろうと思った。
私物が私の手元に戻らなかった原因は、「日本社会の風潮」にあると思った。
なぜかというと、今の日本は学校や企業等において「減点法」があまりにも色々な場面で跋扈し過ぎている。
「元に戻すのを忘れた」と正直に名乗り出ることは、「その人物の評価にマイナスが付くこと」になってしまうのだろう。
学校や企業で減点法を導入してしまうと、他人から低い評価をされるのが怖い人や自己評価が低かったりする人等は、自信がないシチュエーションではほとんどの場合、守り一辺倒に入ってしまう。そして、何事にも消極的になってしまう傾向にある。
また自分自身が出来る事よりも、出来ないことにばかり意識が囚われてしまう。
減点法だと、たとえちゃんと出来た時であっても只の「減点なし」であって、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、ちゃんと出来なかったときには即座に「減点」なのである。
それでは積極的にチャレンジするモチベーションも下がっていくばかりである。
そして毎日の行動が「失敗しない事」だけの為の同じことの繰り返しでマンネリ化してしまう。結果として最後には、たとえちゃんと出来ていてもプラスがないので、自分の長所や価値、ひらめき(新企画等)に気づけなくなってしまう!
私は、社員を評価する時、基本的には「加点法」で評価するようにしている。
冒頭で述べたようなシチュエーションの場合、小さなミスを犯したことよりも、正直に名乗り出た真面目さに意識が向く。
取返しのつく失敗ならば、長所を伸ばす施策で短所をカバーできると考えている。
加点法の一番のメリットは、「仮に何かで失敗したとしても、また別の何かで取り返せる」と考えることが出来る点である。そしてチャレンジ精神を持ち続けることが出来るということである。
ただし、当社の場合だと医師や看護師をはじめとして「人の健康や命に関わる業務」については、少しの失敗も許されず、正確さと慎重さが一番に求められことは言うまでもない。
2016年
9月
25日
日
「絶対に勝てる」に潜む魔
ほぼ「勝利」を手中に収めた状態から、まさかの負けを喫するときが往々にしてある。
4年前、男子柔道の無差別級日本一を決める大会「全日本柔道選手権大会」の決勝戦に、私が後援会会長を務めさせて頂いている柔道家 石井竜太選手が勝ち進んだ。
身長193cm・100kg超級の大きな竜太選手に対し、対戦相手は二回り近く小さな174cm・90kg級の選手である。
体格差を見た瞬間、私は竜太選手の優勝を確信し、試合前であったが完全に浮き立ちながら優勝パーティ―の会場を急遽抑えた。
今夜は朝まで祝勝会だー!!!おぉぉー!
しかし・・・
結果は負けであった。
私は現役時代、相手を甘くみて、その結果負けてしまうことが少なからずあった。
「絶対に勝てる」と思った瞬間、慢心し油断し、それに起因するミスを多く重ねてしまい試合運びをうまく進められなくなる。そして試合途中からは、うまく進めないことに気持ちも焦り出し、日頃は自然に出来るはずの体捌きや組手、もっとも得意とする技まで掛からなくなってくる。
そんな時に「こんなはずではない!」と更に焦っても時すでに遅く、最悪の内容で負けてしまうことになる。
まぁ柔道の試合(スポーツ全般)に限らず、人生全般においても慢心・油断に起因する失敗やミスというのは怖いものである。
油断大敵の「大敵」は「最も強い敵」という意味らしい。しかしよく考えてみれば、その「最も強い敵」の正体は他人でも悪魔でもなく、油断してしまう「自分の心」なのだから、もどかしい。
獅子博兎(ししはくと)の四字熟語にもあるように、何事にも全力を尽くすことでしか良い結果は得られないのかもしれない。
ところで柔道をしていた当時、私は大変な負けず嫌いだったので、負けた相手に対しては、いつもすごく憎い感情を持っていた。次に試合をした時は、殴ってでもいいから勝ちたいとすら思っていた 笑!
しかしある時、「自分が負けた相手は、自分の弱点を教えてくれた先生と考えることが出来ないか?」と言われ、ハッとした。
相手がいるから戦えるし競えるし学べるし成長出来る。
講道館柔道だけではなくスポーツ全般の精神の根底にもあるように、全身全霊を傾けてお互いが切磋琢磨しながら競い合いことで、「相手を尊重する気持ち」や「相手に感謝する気持ち」が生まれるのだろう。
・・・と偉そうなことを書いてみたが、ほんとうは
私を負かした相手が駅の反対側のホームに居るのを見つけ、「柔道で勝てないんなら喧嘩で勝ってやるううー!」と走り出した私である。笑
ちなみにその時、私を羽交い絞めにして止めた1学年上の先輩が、石井竜太選手の父親(石井兼輔 国際武道大学 武道学科 教授)である。
2016年
9月
11日
日
障害者について 2
2016年7月、相模原の障害者施設で重度障害者ばかりを狙った痛ましい殺傷事件が起きた。
容疑者は施設の元職員で、「障害者がいなくなればいい」といった趣旨の供述をしているという。
私は障害者の雇用や高齢者施設の運営などハンディキャップがある方々と関わる事業をさせて頂いているので、ここに意見を書いてみたい。
現在、健常者として生きている人々は、たまたま偶然に健常者として生まれただけで、誰でも約0.2%の確率で(文献により差異有り)先天性の障害をもって生まれてくる可能性がある。
現在、健常者の方も事故や病気で中途障害者になる可能性がある。高次脳機能障害の方だけでも全国で約50万人以上、そして少なくとも年間1万人以上、毎年増え続けているのが現状だそうだ。
運よく健常者として人生を生きても、人間だれもが必ず老い、体が不自由になり、一人で生活するのが難しくなる。
他者からの援助が無ければ生きていけなくなる日が、いずれ必ず来るのである。寝たきりの障害者や高齢者の姿は、皆の「行く道」なのである。
花でも木でも虫でも動物でも人間でも、この世に生まれ出た限りは「生きたい」と考える。
いま現在「生きたい」と思ってない人でも、本当に死ぬような場面に直面すれば「生きたい」と思うはずである。なぜなら「生きること」はこの世に生まれた者の「役割」だからである。
寝たきりのような重度の障害がある人も精一杯その「生きる」という役割を果たしているのである。
健常者は障害者よりも恵まれて生まれて来た分、「生きる」という役割以外にも、多くの役割を背負うことになる。
私は子供の時に母から
「克ちゃんは満足に生まれて来たのやから神様に感謝しいね。健康に生まれて来たからには、満足じゃない人が困っているのを見つけたら、親や兄弟・親戚に関わらず他人さんであっても助けなあかん!」と教えられた。
身内や他人そんな内外は関係なく、人間という1つのカテゴリーの中で、健常者がハンディキャップを持つ人たちを支え、生きやすいように環境を整えてあげるのは、現在 健常者である者の責任であると思う。
動物ならば、強い者が生き残り、弱い者は淘汰されるだろう。
しかし人間はそうではない。人間は自分よりも弱い者からも学ぶことが出来る。他者を尊重することが出来る。思いやることも出来る。
弱い者が淘汰される世界ならば、人間は動物と同じじゃないか。
健常者は自分一人の力で生きている・・・という風に思いがちだが、決して一人では生きて行けない。周囲に支えられながら初めて生きて行ける。私はそれが分かるまでに40年かかった。一人では生きていけないのは健常者も障害者も同じなのだ。
話は少し逸れるが、私が子供の頃、事の子細は分からないが、祖母のところにお金を持ってお礼に来た人があった。祖母は、そのお金を一度は全額受け取り、袋を入れ替えて帰りのお土産代としてまた全額その方に手渡した。
私は祖母に「おばあちゃん、貰っといたらいいのに!」と言うと、祖母は
「あの人からお礼を貰ったら神様からのご褒美は貰えなくなるから頂かなかったんや!」と答えた。
私は当時、もったいない事をするおばちゃんやな!と思ったのを記憶しているが、今は理解できる。
人様から頂くお礼よりも、神様から頂く「徳」を祖母は積みたかったのである。
徳を積むことは結果的には自分の幸せに繋がっていく。
社会での自分の役割を考え、それを果たすことで徳を積むことが出来ると思う。
実行するかどうかは本人次第だが、健康な者は、そうでない者を手助けする役割(徳を積む機会)を神様から与えられていると思う。
幸い私は健康に生まれ、会社を経営する立場にいる。
自分の社会での役割を考え、それを果たしながら生きて行くことが、きっと結果的には社員や周囲の人をそして自分自身を幸せへと導いてくれるはずであると思う次第である。
2016年
9月
03日
土
障害者について 1
当社が製造事業部門で障害者の雇用を始めたのは、今から約20年以上前、1990年頃のことである。
当時、会社の近くにあった大谷繊維工業所の大谷社長(元泉南市会議員、泉南市障害者雇用促進協会会長)の紹介で大阪府立砂川厚生福祉センターの先生が来社され、「生徒の就職をお願いしたい」と頼まれたのがきっかけであった。
今でこそ法整備も進み、各企業は障害者雇用に積極的になりつつあるが、先生曰く、当時はまだ多くの人たちが知的障害者に対して偏見みたいなものを持っており、「就職先をあちこちと探しているが、ほとんど断られるのです。」とのことであった。
当時はまだ今よりも会社自体の経営規模もかなり小さかったので、たった1名でしかなかったが、即座に採用させて頂いた。
この時入社したM君はその後、体力的に働けなくなるまで約20年間に渡り軽作業をお手伝い頂いた。
M君は当社が障害者雇用をスタートさせた1人目の人物であり、丸竹コーポレーション創生期の戦友でもあるので、今も私のデスクマットには彼の写真が挿んである。
会社の経営規模の拡大にともなって「2人ぐらいなら何とかなるかな」「3人ぐらいなら何とかなるかな」と思いながら1人ずつ採用を増やしていき、3年前からは厚生労働省より重度障害者多数雇用事業所の認定を頂いた。
現在は身体障害者3名・知的障害2名の計5名の方が製造事業部に在籍し、そのうちの1名は正社員として働いてくれている。
私は長年、障害者の雇用をさせて頂いている中で、障害者の方たちは、施設で大事に保護されるより、社会に出て働きたいと思っているような気がしている。
なぜならば毎日、体調が悪くても天候が不順でも、施設の先生の制止を振り切ってでも会社に来ようとする。
これは仕事をすることによって他者から認められ必要とされることに「生きがいを感じている!」ことに他ならないと思うのである。
私は経営者として、ハンディキャップがある人でも働きやすい環境を整えることと雇用の機会を創出していく事が、経営者の「義」であり社会的責任と考える。
この思いが、今年よりサービス付き高齢者向け住宅「フラワーホーム」で取組させて頂いている入居者様アルバイト制度にも繋がってきているのである。
今回は働ける力がある障害者のことについて書いてきた。
次回は働くことは出来ない重度な障害者や高齢者について書こうと思う。
2016年
8月
26日
金
緊張からの脱出方法
先日、リオで開催されていたオリンピックが閉幕した。
開催前から、治安の悪さや工事の遅れ・ジカ熱など問題点を指摘する報道も多かったが、しかし今回のオリンピックはすごく素晴らしかったと思う。
日本のメダル獲得数も41個と過去最高を記録し、そのうち金メダルも12個と、これも過去最高記録だった。
柔道(JUDO)も好成績であり、特に男子は全階級でメダルを獲得した。
また東京オリンピックを4年後に控えて、日本のスポーツ全体がかなり強化されてきていることを感じ取れる大会であった。
画面からでも、各選手の克己たる信念を持った頑張り、最後まで諦めないという強い気持ちが伝わって来る場面が多くあった。
ここに来るまでには、幼少の頃から人生のすべてを費やしたと言っても過言では無い血の滲むような努力があったに違いない。
また、4年に1度しかないオリンピックの本番で持てる力のすべてを出しきる難しさを感じさせる場面も多くあった。
オリンピック選手にかかるプレッシャーには到底及ばないが、私も当時、練習してきたことのすべてを本番で思い通りに出すことの難しさを常々痛感していた。
特に試合前の緊張感は、指導者や後援者への恩義・自分自身への不安・所属団体の名誉など色々な想いが心の中で錯綜して頭の中が真っ白になり、心臓が押しつぶされそうになった。今はスポーツ科学も深化して一流選手になるとメンタルコーチなども付いてくれたりして、多角的にサポートされてきているらしいが、それでも最後はやっぱり自分自身の心であろう。
余談だが、私の熊やゴリラみたいな風貌からは想像も付かないだろうが、実は私は上がり症である。
そこで当時、私が試合前に行っていた緊張を解きほぐす方法は、同輩や後輩の前で「アホ踊り」を踊ることであった。
当時のコーチ松本薫先生5段(現 天理柔道会会長)から、「おい立花、試合前の緊張を解きほぐすのは、アホ踊りをするのが一番やで!」と教えて頂いたのがきっかけである。笑
先生は私のおどけてちょける※のが大好きな性格を熟知していてくれたのであろう。
ちなみにアホ踊りとは、「どじょうすくい」と「南京玉すだれ」を口から出まかせに自分流にアレンジした踊りである。
当時、なぜかこの踊りを試合前に踊ると緊張がかなり解きほぐされてリラックスに近い状態で試合に臨むことが出来た。
大人になって書籍で知ったことだが、リラックスしている状態によく行う所作(あくびなど)を緊張時に行うと、脳がリラックス状態と勘違いして緊張が解きほぐされるらしい。
現在でも、たまに極度の緊張を強いられた時には「カーニバル」という名の口から出まかせのオリジナルの踊りを踊っている。(笑)
話は逸れてしまったが、リオオリンピックが終了し、これから国内では4年後の東京オリンピックに向けて選手サポートも益々強化され、東京オリンピック気運も高まってくると思う。
各競技の選手間の競争も益々激しくなってくるであろう。
選手のみんなが一生懸命に頑張っている姿を見ると勇気を貰える。
4年後の東京オリンピックがより楽しみで待ち遠しくなった。
※関西弁で「ふざける」の意
2016年
8月
11日
木
一生懸命だと知恵が出る
以前「ひらめきは情報を蓄積してから」という記事でも書いたように、仕事で成果を上げるには戦略が必要不可欠であり、戦略を考えるうえで「ひらめき」は重要なウエイトを占める要素の一つであると思っている。
そこで今回は視点を変えて、柔道で体感した「ひらめきは一生懸命からも生まれる」ということについて書いてみたい。
天理高校柔道部の学生時代、柔道に青春のそのすべてを費やして多くの事を学んだ。
その学んだことの一つに「一生懸命やる」というのがある。
最近の若者の傾向として、一生懸命やるのはダサい、努力せずに結果を出す方が格好いい、「一生懸命やっている」とアピールする奴は格好悪いとする風潮があると感じる。
しかし、私のこれまでの人生を振り返ると、今あるものの全ては「一生懸命」という基礎の上に成り立っていると明言する。
特段才能があるわけでも運があるわけでもない私にとって、一生懸命やるというのが自分の夢を叶える一番の近道であった。
また「一生懸命」は「ひらめき」を生んでくれる要素の一つでもある。
とにもかくにも学生時代は、自慢してしまうほど一生懸命に柔道の練習に日夜明け暮れた。
その中で、練習中に突然「ひらめき」を覚え、組手の持つ位置を変えたことがあった。
するとどうだろう!?
相手を投げることが出来る精度が格段に増し、その上、ディフェンスの精度まで増して、投げられることさえも格段に減少したのである。(引手である右手の持つ位置を、相手の袖口から脇の下に変えた。)
これは「強くなりたい!」と一生懸命に努力をするうちに、無意識のうちに脳が働き「ひらめき」が生まれた結果だと思った。
言い方を変えれば、「一生懸命から知恵(ひらめき)が出た!」のである。
武田信玄の言葉らしいのだが、私がよく言っている言葉がある。
一生懸命だと知恵が出る
中途半端だと愚痴が出る
いい加減だと言い訳が出る
「ひらめき」とはゼロから突然生まれ出るものではない。
一生懸命やっている内に、自身が視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などで経験した記憶(情報)が蓄積されて、そのピースが無意識のうちに繋がり、そこから「ひらめき」が生まれ出る。
人間の歴史を見ても、ひらめきが人を進化させた。
同じように、ひらめきが無い会社には発展もないと思う。
それほど「ひらめき」は重要である。そして「ひらめき」を起こすための近道は「一生懸命」だと私は信じている。
2016年
7月
28日
木
プラスマイナスゼロ
以下のようなことは、きっと誰にでもあることだと思うのだが、皆さんはどうですか?
■その日の体調や気分によって、仕事の能力や仕事と向き合う意気込みに波がある。
■忙しいと「ひらめき」が起こらなくなる。
■疲れて来ると視野が狭くなり、頭もカチカチになり、柔らかな思考が出来なくなる。
■目の前の雑用に追い掛けられ、「面倒くさい」と思ってしまう瞬間がある。
私は超が付くほどの仕事人間だと自負しているが、やはり上記のような状態になることがある。誰でもそうだと思う。問題は頻度である。
もし上記のような状態になることが多発してい方は問題である。改善する必要がある。
中でも「面倒くさい」と思う回数が増加している場合は、それは人生の危険信号である。
「面倒くさい」という感情は、自分自身の行動力を根こそぎに奪ってしまうだけでなく、人生の発展を止めてしまう負の感情である。
ところで、最近の私自身の課題は、「集中力を長時間維持すること」である。
というのは、昔は仕事に熱中して「気が付いたら明け方だった」なんてこともザラであったが、最近は一日10時間くらいが限界になって来た。
遅い時間にPCに向かっていても、集中力が途切れた以降は、書類を1行2行書くのに十何分も費やしてしまったりする。
昔のように朝方まで仕事をするなんて(気持ちはあっても、集中力が続かず)出来なくなってしまった。
先月、人間ドックを受診したが、昨年や一昨年よりデータが良くなっており、小さなポリープ以外は健康体だったのだが、やはり衰えが来ているのだろうか?
と一瞬弱気になったが、そうではない事に気づいた。
フラワーホームを開設するまでは、土、日、祝祭日には電話や用事も少なく、多少なりとも脳内を休めてゆっくり過ごすことの出来る時間もあった。
だがフラワーホームを開設以来、サ高住に休みは無いので、私自身ほぼ毎日休みなく働いている状態である。そして、経営者として当たり前の事だが24時間、仕事の事が頭から離れることは無い。事業が増えた分、働く時間も考える事柄も増えた。
このことから導き出すと、集中力を維持できる時間は昔よりも短くなっているが、昔よりも社長としての仕事量が多くなり、昔よりも働く日数が増えた。
よって衰えはプラスマイナスゼロ!
と結論づけ、集中力が昔ほど続かなくなったことも前向きに捉えることにした。
しかし誰でも必ずいつか老い、衰える日が来るのが自然の摂理なので、それを感じ取れるか取れないかの如何に関わらず、自分自身を評価できるシステム作りを今、作り始めている。また、完成に近づけばいずれ詳しく書かせて頂く。
若い頃は全くと言っていいほど考えもしなかったが、この年齢になると、生かされていること(健康であること)、やるべきことがある、出来ることがある・・・の幸せついてフト考えてしまう時間が生まれてくるようになった。
このたび、丸竹コーポレーション(株) シニア事業部
サービス付き高齢者向け住宅 フラワーホームのホームページを開設いたしました。
2016年
7月
17日
日
ありがとうカード
何気なくテレビをつけると、カンブリア宮殿という番組を放送していた。
番組はもうエンディングにさしかかっていたが、「ありがとうカード」というのが目に留まり心に残った。
早速ネットで調べてみると、静岡県の「たこまん」の平松季哲社長が社内で施策されているカードであることが判った。
①ありがとうカードとは、複写式のメモ用紙で社員スタッフ全員が持っている。
②上司部下に関係なく、なにか感謝したことがあったらその気持ちを書いて相手に渡す
③貰ったありがとうカードはノートに保存し、お互いを尊重しあう関係を築く。
④複写式なので配ったありがとうカードも保存し、たまに見返し感謝の気持ちを思い出す。
⑤会社は、ありがとうカードを多く配った人を表彰するという。
(配った人を表彰するというのは、それだけ気配りをしたというのが理由。)
平松社長は、「ありがとう」を言い続ける人が幸せになれる。人の長所を見つけることが幸せにつながるとコメントしていた。
通常ならば、ありがとうカードを沢山もらった人が表彰されるのだろうが、沢山配った人を表彰するというのが意外であったが、良いアイディアだと思った。
「小さなことにも気づいて感謝する」というのは案外難しい。感謝の気持ちがあっても忙しさや煩わしさを理由に表現せず、おざなりにしてしまいがちだ。
しかしそれを、あえてカードという具体的なモノにして相手に示せば、社内の人間関係の活性化になると思った。
そこで早速、当社仕様で「ありがとうカード」(写真参照)を企画し、印刷屋さんにオーダーした。
丸竹の既存の事業部では長年に渡り勤めてくれている社員スタッフが多く、互いの性格も腹の中も心得ていたりするが、シニア事業部ではフラワーホームを開設してまだ1年も経っておらず、「組織」や「仲間」というより「個」の意識の方が大きかったように思う。
しかし、ありがとうカードを実施してまだ2か月ほどであるが、社内を見渡すとカードの交流がきっかけで、仲間意識や結束感も増してきているように感じる。
そこで私は、8月と12月の年2回、カードを沢山配った人と、カードを沢山もらった人を表彰しようと考えている。
社員やスタッフが一丸となって、お得意様やご入居者様に、より多くの「ありがとう!」を頂けるよう、皆で力を合わせて経営に取り組み、邁進して行きたいと考える次第であります。深謝!
2016年
7月
10日
日
想定外!?
2016年4月マグニチュード7の巨大地震が熊本を襲った。
21年前の阪神淡路大震災の時と、ほぼ同一規模だという。そして東日本大震災からわずかに、まだ5年しかたっていない。
自然の驚異は現代科学を以てしてもほぼ予測が出来ないと言って過言ではないだろう。
今も熊本県内には5千人以上の方が避難生活を余儀なくされている。
当社からも取締役が被災家屋のがれき撤去のボランティアに参加しに行き、またタオル400枚を避難所に寄贈させて頂いた。
ところで今まで九州・沖縄地方は大きな地震はまず起こらない地区だと言われてきた。
地震よりも台風の通り道であることの方が切実で、自然災害に対する対策にしても、建物の耐震設計よりも、耐風・対雨設計が優先されてきたのが現実である。
しかし想定外の大地震は起こった。
<事業での想定外>
事業を営んでいると想定外の事は必ず起こる。
とくに新規事業においては、小さな想定外の出来事が数多く起こる。
フラワーホームから例を一つ上げれば、入居者様が独断で共用スペースの冷房を切ってしまい、窓を開けた。その日は風が強い日だったので、廊下の額が何枚か落ちて割れた。
書いてしまえば数行のことなのだが、それで熱中症になられては大変だし、割れたガラスを誰かが誤って踏んでしまえば大変である。
冷房を切った入居者様にお話しを聞くと「今日は風があるから窓を開ければ涼しいし、施設の電気代の節約になると思った」とのことであった。
そのお気持ちは大変有りがたく、嬉しかった。
しかし小さな出来事(冷房を切る)から大きな出来事(熱中症になる)を起こさないためには、現状を改善する必要があった。
例えば見回りの回数を増やす、熱中症の危険の周知を図るなど。
まさに毎日がこのような経験の積み重ねで毎日が成長である。
サ高住の運営を開始する前から事前リサーチや想定を行い、リスクマネジメントをしているが、「想定すらしていなかった」というような事が、いつか起こらないとも限らない。
しかし想定する努力を怠らなければ、防げることも多くあるだろう。
「大事は小事より起こる」のことわざのように、自分の知っている小さな問題を見て見ぬふりをしていると、 知らない間にそのことがきっかけとなり、とても重大な問題を引き起こしてしまうことになりかねない。
<見て見ぬふりをさせない>
見て見ぬふりをさせないためには、社員スタッフ一人一人に当事者意識を持たせる必要がある。
そして問題について言い出した人が損をすることがない環境を作る。
問題を先送りせず、スグ解決するという風潮を作る。
社員スタッフみんなの頑張りに深謝すると同時に、毎日確実に進歩していく会社を目指し、邁進して行きます。
2016年
6月
28日
火
激痛の日々は突然やって来た
5月13日の夜11時を過ぎた頃、何の前触れもなく突然に右肩に違和感を覚えた。
その20~30分後には、右腕がほとんど上がらなくなった。
深夜12時を過ぎる頃には、右腕全体が腫れ上がり、熱(38度)も出始めた。安静にしていても心臓の鼓動に合わせて右肩右腕がズキンズキンと疼き始めた。
脳梗塞か心筋梗塞の前ぶれだろうか?と不安に波立った。
痛みは治まる気配がなく、ついに我慢が出来なくなくなり、自分で救急車を呼んだ。
近所の夜間診療に行き検査を受けると、不幸中の幸いというのか、「たぶん五十肩だと思います」とのことであった。
痛み止めの点滴とシップを処方してもらった。点滴やシップの効果もあり、症状はある程度緩和された。
翌日約30年通っている鍼灸治療院に行った。
マッサージと電気治療・置き針を約100本(鍼灸針を刺しっぱなしにする)をしてもらうと、幾分か腕が動かせるようになり、痛みもいくらか緩和できた。
1日でも早く肩を治したかった私は、連続して通えば早く治ると考えた。
翌日も夕方から通って今度は200本の針を打ってもらった。
その日の深夜になって、かつて経験したことのない気を失いそうな痛みが訪れ、脂汗にまみれた。
右腕全体が少しも動かなくなり、指の一本一本が腫れ上がり、手を握ることさえ出来なくなった。
ただの五十肩で、このように、のたうち回るような激しい痛みが起きるとは思えなかった。
膠原病やギランバレーではないだろうか?昨夜はレントゲン検査だけの診断だったから、もっと詳しい検査を受ける必要があると遠くなりそうな意識の中で思った。
詳しい検査を受けるため、移動の時間はかかるが梅田にある会員契約している病院の救急外来まで急行してもらった。
バイタルチェックで血圧は180を超え、熱を測ると39度になっていた。
すぐに検査(血液・CT・MRIその他)が始まり約2時間かけて徹底的に調べてくれた。
結果はただの「五十肩」である。ほんと私は人騒がせな奴である。
「急性期に自己判断で治療して、針・電気・マッサージを連続して施術することで肩関節の炎症を全体に広げ劇症化してしまっている。発症期から急性期にかけては絶対安静であり針やマッサージはリハビリが始まった段階からですよ!」とのご意見を頂いた。
痛みが酷いので、癌の痛みを抑える点滴を処方してもらい、地元の整形外科に紹介状を書いてもらい、早朝 帰路に着いた。
17日朝から、シップ・痛み止め・ステロイド注射を3日間施し、4日目からはヒアルロン酸注射に切り替え2日間治療してもらった。
約10日間に渡る急性期を皆に助けてもらいながら、何とか乗り越えることが出来た。
その後も、何度か低気圧が近づく度に小さな急性期を繰り返してはいるが、約一か月半たった今はやっと安定期に差し掛かり始めたと思う。
ところで今回このブログを書いたのは、実は皆さんへのお詫びと事情説明の為である。
約一か月近く会合等をキャンセルしたり、連絡の返事もろくに出来ず、その他、不義理の連続であった。
誠にすみませんでした。
五十肩は何の前触れもなく突然来たので、びっくりでした。
泉南市に災害用備蓄毛布を寄贈いたしました。
2016年
6月
18日
土
幼稚な男
「感謝」近年私はこの言葉が好きで、手紙の最後などに自分自身の慚愧の念も込めて大きく記すようにしている。
慚愧の念を込めるワケ、それは・・・
40歳頃までの自分を振り返ると、世の中の常識を、今思えばまったく理解できていなかったように思う。
自分が生きているコミュニティの常識が世の中の常識だと勘違いし、自分の中のルールを絶対のものとしていた。また自分が色々な方々に多方面から支えられている事にはほとんど意識を向けず、自分一人で何でもやれているような気になっていた。
視野が狭く、想像力が足らず、一方的な人間であった。おまけに大きな図体の持ち主であるから、ますます皆さんに横柄で態度のデカい印象を与えていたかもしれない。そのくせ「誰にも負けたくない」と勝った負けたに強く関心が向き、幼稚であった。
いろんな方に出会い、教えられ、少しずつ視点が変わったし、少しずつ視野が広くなったと思う。
そうしたら今頃になって「よくぞ皆さま、見捨てずにいてくださってありがとうございます。」という心境になり、過去の物知らずで無礼な自分の振る舞いを思い出して、背筋に冷たい物が走るのである。また、私にウンザリして離れて行かれた方もいらっしゃる。
その方々に心より深謝申し上げる次第であります。
すべての出逢いに感謝しています。
最近よく聞いている歌がある。
♪いろんな出逢いに感謝しながら 終わりのない夢を抱きしめて どこまでもまだ歩いて行こう
見上げればはじめての空 どこまでもまだ歩いて行ける 今の君は初めての君なんだ♪
(中村 雅俊「はじめての空」東建コーポレーション㈱ イメージソングより引用)
新規事業であるサービス付き高齢者向け住宅フラワーホームを開設して今で7ヶ月目である。
異業種から参入した私にとって、まさに毎日が「はじめての空」である。長年、高齢者福祉の業界にいるスタッフから教えられることも多い。入居者さまから教えられることも多い。毎日が学びで、毎日が成長で、毎日が感謝である。
フラワーホームを、もっともっと良い施設にして行きたいし、もちろん既存の事業ももっと盤石にしたい。それに他に挑戦したい夢もある。
健康に留意して長生きして、どこまでもまだ歩いて行こう、どこまでもまだ歩いて行ける。
今の私の心にピッタリの歌である。
関連記事:経営者意識の覚醒1
厚生労働省 渡嘉敷なおみ副大臣がフラワーホームに、政務調査と意見交換会を兼ねて、ご視察に来られました。
2016年
6月
09日
木
たった1000日じゃないか
天理高校柔道部の当時の鬼監督 加藤秀雄先生は、私たち柔道部員を叱ったり励ましたりする時、「高校3年間、たった1000日じゃないか!?」
「たった1000日も頑張れないのか!?」
「1000日間で良いから毎日毎日、今日一日だけと思い必死に練習しろ!」とよくおっしゃった。
しかし高校生だった私は「加藤先生はたった1000日と言うけれど、1日1日がこんなにもしんどくて長いのに、1000日間なんて気が遠くなるほど先じゃないか!到底無理だ!」と心底嫌気が差していた。
思い返してみても、春に入学し秋が終わる頃ぐらいまでが一番辛かった。
毎日振子のように「もう辞める」と「あと少しだけ続ける」の間を行ったり来たりしていた。
それでも、何とか先生・先輩・OB等の方々に支えられながら練習を続けていた1年生の終わり頃(約333日経過)に、ふと考えたことがある。
俺たちは、3年間1000日で卒業だが、しかし先生は、その1000日を幾度となく繰り返している。
ヒヨっ子のような新入生を叱咤激励しながら逞しく育て、全国優勝させ、それで「めでたし めでたし ハイおしまい」ではなく、次の年もその次の年も延々と、ヒヨっ子たちを叱り慰め育てて全国優勝を目指し、そして春には送り出し、また次のヒヨっ子を迎えている。
そのことに気付いてから「あぁ先生に比べたら、1000日なんて短いな」と何とか思えるようになった。
2年生になって力が付いてきたお陰と、苦しいことでもそれが習慣化したせいもあろうか、一日一日がそれほど苦に感じなくなった。
そして卒業する頃になると1000日過ぎていたことさえ忘れていた。
以前にも書いたが、先生は卒業式の日の朝まで私たちに練習をさせた。
それは「全国優勝がゴールではない」という意味や、「この1000日は人生の通過点」という意味もあったのだと思う。
私は本来とても飽き性で、人生の中で初めて、毎日3年間続けることが出来たものが柔道であった。そしてある程度、人生の中で最初に結果を出せたのも柔道であった。そして、柔道から学んだものが今の私の経営の礎となっている。
経営とは、月並みな言い方だが、どこまで走ってもゴールのないマラソンレースのようなものだと感じる。
その思いから、私の座右の銘は「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」となった。
しばしば若い人から相談を受けるので、その時に私が言う言葉がある。
「どんな状況になっても、最低1000日間は続けることだけを考えて、一日一日の仕事を必死に頑張りなさい!」
「昔から石の上にも3年と言われているが、結果を出すにはそれなりの期間が必要。3年続ければ世界観も変わってくる。」
「始めたら最低3年間は続ける覚悟がないなら、やらない方が良い。」
最高に苦しかった天理柔道の3年間から、もし私が逃げ出していれば、今とは全く違った人生を送っていたことは間違いないだろう。
2016年
5月
29日
日
懐かしい電話
今年の春先、「ネットで立花を見つけた!ブログも読んだよ!」と言って、約30年ぶりに茨城県の古い知人F氏から電話をもらった。
F氏とは、宅建を取る為に通った社会人向け専門学校の同級生(年齢は私より5歳上)である。
たまたま隣合わせの席だったので、あいさつ程度の話をするようになり、そのうち週に1度ほどのペースで、帰り道に居酒屋へ寄り道するようになった。
専門学校終了の後も1年間ほど、お付き合いをさせて頂いていたが、このF氏の北関東転勤(大手不動産会社勤務)と同時に、どちらからともなく疎遠になった。
懐かしい声でF氏は「来年で定年」ということや、「人生ってのは、うまく行きそうで、なかなか行かないなあ」ということを話した。
私も「なかなか思い通りにならないことって、山ほどありますよね」と話した。
それから話は「なんの為に今まで働いてきたのか?」という内容に流れていった。
私が働く理由は、以前にも書いたように「経営が好きだ」というのも大きな理由の一つである。
しかし、「好きなことをする」というのは「欲」であるから、自分の欲の為にだけに働いているとモチベーションが長くは続かず怠けてみたり、思い通りにいかないと放り出してしまいたくなる。
自分の為にだけなら、苦しい思いはなるべくしたくないし、楽な方へ流れてしまうと思う。
仕事とは、やはりしんどいものであるから、そのしんどい仕事を続けていくためには、「自分の欲」よりも強い「働く理由」が必要である。
私の場合、「社員やスタッフ、取引先、お客様なども含め、私の目に入る範囲の人たちが、丸竹という会社を通して幸せになってほしい」という願いが「働く理由」である。
私は、私イコール丸竹と思っているが、「会社は公の器」というのも事実である。
会社という器(うつわ)を通して、いくつもの家庭が生計を立て人生を送っている。会社の業績が良くなれば皆の家庭も豊かになるだろうし、会社がなくなれば社員の家族も含めて困る人が多くいるだろう。
そう考えると、怠けたい、しんどいことはしたくないという心に内包された自分自身の負の欲求を正のエネルギーに変えることが出来るのである。
距離を置いた目線で自分を分析すれば、「周りの人たちの為に」という気持ちに依存することで、自分を奮い立たせているのだと思う。
仕事の喜びは、「お金を稼ぐ喜び」「目標達成の喜び」「自分実現や自己成長する喜び」「社員や会社の成長の喜び」などがあるが、私は遅ればせながら40歳を超えてから、「喜んでもらう喜び」「貢献する喜び」というのを理解したような気がする。
そしてこの「喜んでもらう喜び」「貢献する喜び」が社員スタッフ一人一人にまで浸透している会社は、きっと和(なごみ)があり、心に余裕があり、建設的で前向きな意識がある素晴らしい会社なのだろうと思う。
「誰かに喜んでもらう為にした行動は、形を変えてまた自分自身に還って来て幸せを与えてくれる」という事実を、社員スタッフたちに繰り返し伝えて行こうと、懐かしいF氏との会話の中で思った。
2016年
5月
19日
木
苦しい方を選択し続けていたら・・・
昨年、天理大学の理事長とお話させて頂く機会があった。
その時にお聞きした「理事長が小学生だった時の『担任の先生の贈る言葉』」がたいへん印象深いものだったので、ブログに書いてみたい。
(記憶を頼りにブログを書かせて頂くので、若干の差異はご容赦願いたい。)
昭和20年代、理事長がまだ小学校6年生の時のこと。
午前中に卒業式があり、午後はクラス単位で集まって「お別れ会」が各教室で催されたらしい。
その席上で、担任の先生が生徒を送り出すとき掛けた「贈る言葉」のお話である。
『先生が初めて出くわした人生の大きな岐路は、大学生活の終わり頃の話であるが、①軍隊へ行くか?学校の先生になるか?であった。
その当時の日本は戦時色のまっただ中で、国を挙げての戦闘態勢であった。
それでも先生は考えてみると軍隊へ行くのは苦しいから嫌だと思った。でも、よくよく考えてみるとそれは「苦しさから逃げること」だと思い、軍隊に入隊することにした。
次に戦争も末期に差し掛かった頃、②先生は特攻隊に志願するか?しないか?という岐路にここでもまた立った。先生はやはりしばらく考えたが、ここでも死ぬ為に飛行機乗りになるのは嫌だと思った。が、自分自身の「苦しさから逃げない」という信念の通りに特攻隊に志願し飛行訓練を受けた。
その次の岐路が特攻飛行訓練後のことである。
今度の岐路は、③誰が一番に突撃して行くか?である。ここでも死ぬのは嫌で、なるべく最後の方が良いと考えたが、やはり自分自身の信念に従い「一番に突撃」を申し出た。
しかしである!今、私は教師として君たちの前に立っている。
人生の岐路の度に、教師になるという自分の夢とは反対の「苦しい方」を選択したにも関わらず、結果は教鞭を取っている。
①軍隊に入らず先生になった同期の何人かは、各地の本土空襲で亡くなられた。
②先生は鹿児島の知覧に居たが、特攻隊に志願しなかった同僚の何人かは本土基地で空襲を受け、ここでも数人が亡くなられた。
③出撃の朝、先生の乗る戦闘機のエンジンが故障して飛び立てず、出撃順位が一番後ろ回しになり、飛び立たない内に終戦を迎えた。
この話は、戦後の今の日本で、話して良いのか悪いのかは先生も判らない。
また死ななかったことを偶然だと片づける人もあると思う。
しかし先生は決して偶然だとも思っていない。自分自身の信念に基づき選択してきた道であり、決して死から逃げた訳でもない。むしろ覚悟を決めて前に出た。
戦争で亡くなられた人は戦後の「日本の礎」となられた立派な名誉ある英霊の方々である。また、戦争で死ななかったことを恥じる人もいるが、先生はそう思わない。
あの激戦を生き残ったということは「日本の国を再び立て直す」という役目と責任を背負い生きて行くということだと思う。
そして「苦しい方」ばかりを選んできたからこそ、こうして生きて、最初になりたかった先生になり教壇に立っている。
極端な例の私自身の話になってしまったが、今後、戦争がまた無い限り、君たちに「死を覚悟するほどの苦しい選択はまず無い」と思う。
しかし「人生でどんな難関に出会っても苦しさから逃げない」「何事も挑戦して乗り越えて行く」という気持ちを持って生きて行ってほしいと思う。
そのことを忘れそうになったら先生のこの話を思い出してほしい。』
というような内容の話だったらしい。
色んな受け取り方の出来る話であると思う。
先生は死に近い方の選択ばかりをして来られていたのに、生き残ることが出来たのは、教師になるという役割(運命)を与えられていたからだろうと私は思う。
勝手な想像だが、卒業後すぐに先生になられていても空襲からも生き延び、教師を続けられていたかもしれない。
しかし先生は苦しい道をご自分で選んで、多くの辛苦と能動的に立ち向かわれ、その経験を糧にしたからこそ、より奥行のある経験豊かな逞しい先生になられたのだと思った。
また特攻隊など生死に関わる選択であっても「苦しさから逃げない」という己の信念を貫かれた姿勢は、現代の平和な日本では到底考えられず、男として「その生きざま」に心震えるものがあった。
2016年
5月
08日
日
見知らぬ人からの親切
昭和46年の秋、私が樽井小学校4年生で、遠足の前夜の話である。
この頃、母は腎臓結核の療養のため長期入院をしていた。
そのため自宅では父と私の二人暮らしと言っていいような状況であった。
父と私で、掃除・洗濯・食事作りなど家事全般を分担していた。
なかでも食事作りに関しては、腹がへってたまらない年頃だったので、父を待ちきれずに食事は自分で何でも作れるようになっていた。
当時、父の勤めていた会社は昼夜12時間勤務の隔週2交代制の会社であった為、週替わりで朝7時から夜7時まで不在の週と、夜7時から朝7時まで不在の週が繰り返しあった。
つまり月の半分は、夜から朝まで私一人きりであった。
話は遠足の前夜に戻る。
その日も父は夜勤で私一人であった。
当時習いに行っていた少林寺拳法の練習を終えて帰宅したのが午後8時を回っていた。
その後、近所の銭湯へ行こうと自宅を出て歩いていると、近所に住んでいた同じクラスの和弘君が入浴を終えて銭湯の方から両親と帰ってきた。
和弘君が「明日の遠足楽しみやな!」と私に声をかけ、通り過ぎて行った。
私は目が点になった。すっかり遠足のことを忘れていたのである。
銭湯を取りやめて慌てて引き返し、すぐさま自転車に飛び乗ってお弁当の食材を買いに走った。
当時、泉南には(日本には)まだコンビニも全く無く、午後8時ともなると開いている店は皆無であった。
いつも通っていた八百屋の前まで行ってはみたが当然閉まっており、ひっそりとしていた。
焦燥感に苛まれながら、自転車を急いで漕いだ。
人の気配が消えた薄暗い商店街を泣きそうになりながら漕いだ。
営業している店を見つけられないまま商店街の出口を走り抜けようとした瞬間、1件のお店の雨戸が半開きになっているのを見つけた。
何を売っている店なのか確認もせず、救いを求める気持ちで飛び込んだ。
後から分かったことだが、そこは「山本青果店」という果物を中心としていたが、野菜など何でも食材を売っている八百屋さんを兼ねたような店であった。
中には60歳くらいのおばさんが一人で算盤を弾きながら本日の集計を入れていたように思う。
明日遠足で弁当の食材が必要だということを説明すると、すぐさま店の電気をつけてくれて「ウインナー」「たまご」「ちくわ」を出してくれた。
お金を払う時になって、「一人で買い物に来たの?お母さんは?」と聞かれた。
母の入院は日常であったから、いつの間にか私にとっては特別なことではなくなっていた。
あっけらかんと「お母さんは入院中やから自分で弁当作るんやけど、遠足のこと忘れてた。」と答えると「僕は頑張り屋さんやな!これは私からのオマケや!」と言って、紅鮭の切り身をプレゼントしてくれたのである。
行きとは違った気持ちで、私は自転車を勢い良く漕ぎながら自宅に戻った。
正直言って、お弁当を作れた達成感や味まではもう覚えていない。忘れてしまった。
しかし、「白いご飯の上に、紅色の鮭が乗っていた光景」は色鮮やかに記憶に残っている。
その光景は、これまでにも何度も何度も蘇えって来ては、私を何とも言えない気持ちにさせた。
2012年のある日突然、その弁当の光景が爆発的な感情を連れて、再び蘇えって来た。
私は居ても立ってもいられなくなり、その日のうちに記憶を頼りに「山本青果店」を訪ねた。
「たぶん」とは思っていたが予想どおりに、その方はお亡くなりになられていた。
しかし、お店は青果店ではなくフードショップに名前が変わっていたが健在で、息子さんの代になられていた。
取り敢えず事情を説明させて頂き、出直してお供え物を購入してから改めて訪問し、御仏壇にお供えさせて頂いた。
その後、数日してこの跡を継がれた息子さんが来社してくださって、仏壇のお下がりの「おまんじゅう」を賜った次第である。
余談ではあるが、ちなみに先般書いたブログに登場するF谷T美子先生のお蔭で小学校5.6年はお弁当を作らずにすんだ。
平成28年5月2日(月)、泉南市なみはやグラウンドにおきまして、
泉南市グランドゴルフ協会主催「泉南市グラウンドゴルフ大会 第1回フラワーホームカップ」を開催いたしました。
当社会長の友人の方や同級生の方、また元社員の方にも会場でお会いでき、皆様方のお元気な姿や、はつらつとしたプレーに私も元気を頂戴いたしました。
多くの参加者の方にもお声をかけて頂き、有難うございました。
2016年
4月
27日
水
後になって気づくこと
プロフィールやブログにも何度も書いているが、私は15歳の時に地元大阪を離れて奈良の天理高校に柔道をする為に入学した。
それまでは実家の大阪で、やりたい放題の自由気ままな生活を送っていたわけだが、入学した瞬間からそれはそれは厳しく管理された生活が待っていた。
約40年前の話であるから、現在はもう大きく違うであろう。
柔道部専用の寮に入寮し、自室や道場の掃除はいうに及ばずトイレ掃除や廊下の掃除、皿洗いや洗濯はもちろん、布団の敷き方や挨拶の仕方まで、すべて詳細に決められた規則の中での生活であった。
そんな生活の中、柔道の修行は朝練の走り込みから始まり、放課後の部活動はもちろんのこと、寮での就寝前の筋力トレーニングまでも決められていた。
入学当初は柔道の修行よりも規則と礼儀作法というものを徹底的に教え込まれた。
当時は正直「なぜ、こんな苦しく厳しい所へ来たのだろうか?」と自分自身の選択を恨んだりもした。しかし、人生の中でも一番多感な時期に受けた様々な厳しい指導は、経営者となった今の自分にとって、人生最大の財産となっているのが現状である。
柔道をする為に天理高校に入ったのだが、結局は柔道だけではなく、社会で生きていくために大事なものも数多く学んだと思う。
というのは、まず柔道や肉体を酷使するスポーツの類は加齢や肉体的な限界が自ずと存在するので一生続けることは不可能である。
ほとんどの場合、大学を出れば社会に出て働くことになる。
その時に必要な要素のほぼ大半を、私の場合、柔道を通して教えられたである。
簡単ではあるが、柔道を通して教えてもらったことを大別すると
「濃厚な集団生活から学ぶ人間関係の作り方、礼儀作法、集団の中での自分の役割の見つけ方や果たし方」
「最初はしんどいと感じる規則も、習慣化させることにより苦を感じることなくやれるようになること」
「血の滲むような努力をしても、その努力が結果に反映されるとは限らないスポーツの不条理さを経験することで、社会に出てからの不条理にめげない精神力を養うこと」
「諦めず限界まで続ける持久力。そして限界だと思っていた先にも光はあり、知らぬうちに成長出来るということ」
そういったものを教えて頂いた。
偉そうな事を綴ったが、今になって過去を振り返れば、上記のようなことを無自覚のまま学べていたんだなぁと感謝出来るが、当時はただただ目の前の柔道に一生懸命になっているだけで、その努力が今後の自分の人生にどう影響して来るかなど考えもしなかったし分からなかった。
真っただ中に居る時は、「しんどい」「辛い」「もう辞めてやる」と思うことの方が多かったが、時が過ぎてみれば、そんな時期こそ自分を成長させてくれていた時期だったのだと、今さらながらに思った。
2016年
4月
17日
日
スタートして約半年
2016年4月14日に発生した「平成28年熊本地震」により、お亡くなりになられた方々に深い哀悼の意を捧げると共に、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
1日も早い復興をお祈り申し上げると共に、弊社も災害復旧に全力を尽くして支援してまいります。
サービス付き高齢者向け住宅「フラワーホーム」を昨年の11月4日にオープンして来月で半年になる。準備室の立ち上げから数えれば約2年が経過した。
振り返ってみれば、計画通りに進まないことも多く、幾度となく計画の見直しを繰り返えさなければならなかった。
思っていた以上にしんどいなあ!と感じることも多かった。というより朝に夕に思っていた。
しかし10数名の入居者様にも恵まれ、訪問介護や看護にも伸びる兆しが見え始め、デイサービスやリハビリ施設も計画から準備段階に入ることが出来るようになってきた。
入居予約や検討中の方をカウントに入れさせて頂くと約50%の入居率も視野に入る段階に近づいてきた。
この段階まで来ることが出来たのも師匠である東建コーポレーション㈱代表取締役社長兼会長である左右田鑑穂様や当フラワーホームを選択して頂いた入居者様を始めとし、関係して頂いているすべての皆様のご尽力とご厚情、ホームのスタッフや本社の社員の協力体制と「すべての社員・スタッフの努力の賜物」だと思う次第である。
まずをもって御礼並びに深謝申し上げる次第であります。ありがとうございます!<(_ _)>
さて最初は高齢者福祉に関しては素人同然だった私であるが、ようやく業界のなんたるかも見え始めてきた。
しかしながらこの世界は知識が増えれば増える程に、益々複雑になってくる。
介護保険制度は3年ごとに改定が行われるし、去年は介護保険制度スタート以来の大きな制度改正もあり、変更内容が大きく、しかも多岐にわたるため、素人に近かった私はもちろん当然だが、長年携わっている現場のプロでさえ、厚労省のマニュアル本で最新の指針を確認しながら進めることになる。
私は本社で本業の事業を進めながら、新規事業を軌道に乗せるためにフラワーホームと本社を行ったり来たりの毎日である。
「本業が安定しているのになぜ今さらそんな苦労をしてまで新規事業に進出するのですか?」
これはよく受ける質問である。
今までにもこのブログで何度か新規事業に進出する理由を書いてきたが(詳しく読む>>)
今回初めて、企業としてではなく私個人の理由を書くと、
苦労してでも新しい事業に挑戦する理由は、一言で言えば「経営が好き!」なのである。
言い方を変えれば、みんなを取りまとめ、システムを作り上げ、別々だった皆それぞれの力のベクトルを合わすことにより、何倍もの大きな力に変化させ、成果を生み出して行くことが好きなのである。
そういう事をしながら人生を進んでいく事に「経営者としての生きがい」を感じるのである。
「冒険か無謀か」でも同じようなことを書いたが、過程が苦しければ苦しいほど、それを克服し成果を生み出した時の喜びは大きく、その喜びを味わいたが故に経営に熱中出来るのである。
新規事業を展開している現在、経営者として新たな学びになることがとても多い。
シニア事業部の社員やスタッフが増えたが、本業の製造業とはまた違った物差しを持った皆と出会い、一人一人の物事に対する視野の違いを知り、観点の果てしない多様性を学べている。
その観点の中には私自身、「目からウロコ」の思いを感じたこともたくさんある。
一人一人との出会いが私にとっては学びであり、悩みの数だけ経営者として私を成長させてくれていると感じている。
2016年
4月
10日
日
機会損失の排除
今回は、中小企業におけるビジネスチャンス損失の排除について書きたい。
大まかに「営業」・「電話対応」・「製造」の3つに分けて、当社における具体例や目標も含めながら、書き進めていきたい。
営業においての機会損失の排除
まず中小企業の営業部門においての機会損失の一番の原因は、営業拠点と人員が少ないことである。
その欠点をカバーするためには?
1、
代理店さまを1店でも多く開拓すること。そして定期訪問における商品の勉強会や、より多く販売して頂くために魅力あるパンフレットを作成し、少しでも当社の商材が売り易いように販売の後方支援をさせて頂くこと。
2、
ITを中心とした販売促進資料を高度化させると同時にPR効果を高めること。
HPは24時間営業活動をしてくれるものであるから、営業マンにすぐに連絡が付かないことによる機会損失を排除するためにも、最新の情報をwebからお客様に取得して頂けるようにマメに更新を心がけること。そして一人でも多くのエンドユーザーさまの目にも触れるようにすること。
ちなみにテキスタイル事業部ではアプリを作成しアプリを使っての営業や見積もり、シニア事業部ではパワーポイントを使っての営業などで、営業拠点や人員の少なさをカバーしている。
3、
全員営業>>を心がけること。
そのためには情報を自分の部署内(事業部内)だけに留めてしまわず、社内全体で共有すること。
社員全員がアンテナを高くして、自分の部署(事業部)以外の情報にも敏感になることで、部署外のことをお問い合わせいただいても、皆がその場で受け答えが出来る体制を目指すこと。
電話対応においての機会損失の排除
「ビジネスチャンス到来は電話対応の如何にある」言っても過言では無い。
電話での問い合わせにおいて、会社の第一印象はその「受け答え」で決まる。
シニア事業部を開設し、多くの新入社員やスタッフが入社して来た。電話対応が上手い者もいれば、そうでない者もいる。電話対応の斑(むら)による機会損失を排除するために、各自のポテンシャルに任せるのではなく「電話対応マニュアル」の厳密化と更新に取り組んで、大企業並みの電話対応品質向上にむけて日夜、研修を怠らないこと。
その他にはアフターサービスとクレーム処理も大事な要素の一つである。
アフターサービスは次のビジネスチャンスに繋がっているし、特にクレーム処理の内容は、次の商品開発にも繋がっている。
製造においての機会損失の排除
中小企業であるが故、端境期に赤字を出さない最小限の製造体制を敷いている関係上、繁忙期には製造キャパの限界値にすぐに達してしまう。ここが中小企業の一番大きな泣き所である。
キャパが無ければたとえ大きな仕事が舞い込んでも断るしかない。これではビジネスチャンスの大損失である。
そこで当社では「端境期の自社でのある程度の作り貯め」・「繁忙期に派遣社員投入での24時間製造体制」・「繁忙時期に差異のある産地への協力依頼製造体制の構築」・「同業他社との在庫融通化による協力体制」・「最後は海外での緊急買付」という5本柱で対処している。
その他に機械損失を挙げるとすれば、大手さんに比べて製造コストが高くなってしまうというところであろうか!?
中小企業は、製造コストの安い海外への進出は資金力の脆弱さから簡単には儘ならない。
そこで小回りが出来ることとレスポンスの速さという特性を生かして商品自体の付加価値を高めた「なるべくコスト競争の影響を受けにくい物づくり」で、対処して行くという道しか無いと思うのである。
そしてここで一番恐いのは既得概念に囚われて、去年も売れたから今年も引き続き売れるだろうと楽観視してしまうことから起こる商品の開発遅延と、既成概念に囚われて、「過去に作った経験の無いものだから」と簡単に「出来ません」と断ってしまうことでビジネスチャンスを逃すことであろう。
いくつか例を挙げたが、結局は「ヒューマン」である。
(ITの例も挙げたが作成するのも更新するのも使うのも人である)
これが経営の要諦の中でも昔から言われている「企業は人なり」という言葉の意味であり、「社員教育の重要性」の如何だと私は理解している次第である。
2016年
4月
03日
日
顔と名前を覚えるには
昨年の11月4日にフラワーホームを開設してからは、初対面の人にお会いする機会が一層増えた。
面談させて頂き名刺交換をさせて頂いても、次にお会いした時にはお名前が思い出せなかったり、偶然に外出先でお会いした時などは会社名すら思い出せずに慌てることが年齢とともに増えてしまった。
ビジネスの機会だけではなく私生活においても、お名前を間違えたり覚えていないとなると、加齢による現象の一環ということでは済まされず、相手の方に対してこんな失礼千万なことはないと思うのである。
そこで、近年私が行っている対策を記してみたい。
そもそも覚えようという意識自体が最近は少し低下して来ているように思うので、衰えを食い止めようと、あえて自分自身に宿題を課すようにしている。
月並みではあるが、まず顔と名前を覚えるために、その方が帰られた直後に名刺の裏に取り外しの出来る付箋を付けて、手帳以外にもメモを取るようにしている。
名刺への直接の書き込みは失礼な気もするし、裏書が有る場合も最近は多いのであえて別の紙に記入して貼り付けるようにしている。
内容はお会いした日付・紹介者・来意・話題・髪型・体形、そしてもし判れば出身地・出身校等、その他、記憶に残った事柄を簡単に要約したものである。
ところで先般、このような話題を社員と話していた時、私は愕然とした。
その社員は「社長!そんなことをしなくても、もっと簡単に出来る方法がありますよ!」
「スマホかタブレットを使えばいいじゃないですか?」
「その方がメモを取るにしても簡単便利だし、名刺を読み込む機能だって付いてますよ!」
「我々世代では、初対面でお互いの写真まで取ることだって有りますよ!」と言ってきた。
言われてみればそうであるが、つい最近まで私はガラケーを使っていたので、そんな機能が有ることさえ知らなかった。
ちなみにスマホではない昔ながらの携帯の事をガラケーと言うのだそうだが、正式にはガラパゴス携帯というのだそう。
世界の進化の流れに取り残されて、小さな島の中だけで独自に進化したガラパゴス諸島の生物になぞらえた用語だそうだ。
このままでは私自身が世界の流れに取り残されガラパゴス化してしまう!
そこで早速スマホを弄ってみたが、その名刺を読み込む機能がどこに付いているかさえ見つけられなかった。
結局、その機能はアプリをダウンロードしなければ使用できない機能だったのであるが、どうやってダウンロードをすれば良いのか分からない。
以前に読んだ本田宗一郎氏(Honda創業者)の自伝に「若い社員が今、何の開発をしているのか聞いても理解できなくなったので引退を決意した」と書かれていた。
私は、最低でもあと20年は現役でいたい!
そのためにも、先端技術等や良いと思うことはすべて、年齢や立場の上下に関係なく、若い子やたとえ10代の子にでも、頭を下げてでも色々な事を学ぼうと思った次第である!
ごあいさつ
2015年より3年間という期間を定めて「第二の創業」をスローガンに革新を行おうとスタートを切りました。
その一つとして昨年11月には新規事業である「サービス付き高齢者向け住宅 フラワーホーム」の運営を開始し、介護ステーション、看護ステーション、クリニックなどサ高住に関連した事業所も順次開設致しました。
そして今年度は、6月よりデイサービス、10月よりリハビリステーションを開設すべく準備を進めております。
社内の制度や経営システムについても、変化の多いこのタイミングを最高の機会と捉えて革新を推進し、成長軌道に乗せて行く覚悟であります。
これもひとえに皆様方のご支援のおかげでございます。
平成27年度に賜りましたご厚情に深謝申し上げますとともに、平成28年度も変わらぬご厚情をお願い申し上げ年度末のご挨拶とさせて頂きます。
2016年
3月
27日
日
冒険か無謀か
シニア事業部を立ち上げ、サービス付き高齢者向け住宅・フラワーホームを開設すると、色々の方から「こんなご時世に社長は冒険者ですね!」と言われる機会が多くなった。
しかし決して私は冒険者ではないのだが、でもそう言われると「冒険者」という言葉の響きに男心がくすぐられ少し嬉しい感じがする。
ところで、過去に2度訪ねたことがある兵庫県豊岡市の『上村直己冒険館』を思い出した。
ここは、世界初の5大陸最高峰登頂を無し遂げて国民栄誉賞を受賞した植村直己さんの冒険を支えた装備品や遺品などを数多く展示または収蔵しており、様々な写真や説明パネルを多用してテーマ別に分けて「冒険」を紹介しているところである。
また豊岡市で生まれ育った生い立ちから始まり、厳冬期アラスカの北米最高峰マッキンリーの登頂を果たした翌日の下山途中に、その快挙もつかの間、消息を絶ち行方不明になられたまでを忠実に解り易く、時系列を追って展示してある施設である。
さてその展示パネルで、植村直己さんは
「登山家として最大に必要な資質は、臆病者であること!」と語っている。
私はこの一文を読んだ時に衝撃を受け、胸が痛くなるほど共感した。
功績の大きさから、私は植村さんという人物は勇猛にどんどん猛進して行くタイプの人だと想像していた。
しかし実際には、「石橋を叩いて渡る人で、十分な計画と準備を経て、必ず成功するという目算なしには決して実行しなかった人物だ」というようなことが書かれていた。
意外であったが確かに、自分を過信して裏づけなく猛進して行く人であっては、世界初の「五大陸最高峰登頂者」になど、なることは出来なかっただろう。
冒険とは、行く先に待ち受ける困難を予想し、自分の力量と身の丈を客観的に確かめながら、「これならだいじょうぶ」と幾度も幾度も臆病なまでも確かめ、一つずつ不安を打ち消しながら進むことによって初めて成功に向かう、そういうものなのであろう。
月並みな言い方だが、失敗を恐れていては何もできないし、またリスクを恐れていても何もできないが、しかし冒険という言葉の中に潜在する本来の意味とは、想定される全てのリスクと困難を予想し、その為の準備を整えてから初めて挑戦することが、本来の冒険の意味であると思う次第である。
準備もなく果敢に進んで行くのは、「冒険」じゃなく「無謀」なのである。
また別の展示パネルには「過程が苦しければ苦しいほど、それを克服して登り切った喜びは大きい」と植村氏の言葉が書かれていた。
これは私も講道館柔道に青春を掛けていた高校柔道部時代に感じたことだが、確かに、それまでの練習が苦しければ苦しいほど、試合で勝利を手に入れた時の喜びはとても大きいし、感動する。
なにより自信になる。
反面、苦労せずに手にいれたものは、その一時は嬉しくても、ただそれだけである。
仕事でもスポーツでも、「あぁしんどいなぁ」と息を吐いてしまう度に、「でも、この努力の先に在るものを得た時の感動は大きいだろうなぁ。その日が楽しみだな。」と思えば、また頑張れるのではないだろうか。
2016年
3月
20日
日
104歳!現役理事長
2年程前に、新聞で見つけた聖路加国際メディカルセンター理事長 日野原重昭(ひのはら しげあき)氏のコラムを読んで、その並外れたパワーや御寿命にあやかりたく、氏の長生きの秘訣を私なりに考察させて頂き、このブログで書かせて頂いた。(詳しくみる>>)
最近また久しぶりに氏のコラムを新聞で見つけて、今回は「若々しくいられる秘訣」を書かれていたので、今回も自分なりに読み解いた内容を書いてみたい。
さて前回、このブログに書かせて頂いた時点で氏は102歳であったが、今は御年104歳になられている。
そして驚くことに現在も現役であり、肩書は聖路加国際大学名誉理事長に変わられているが、今も執筆活動をはじめとし医学会発展の為に海外にまで講演に行かれることもあるそうで、今なお走り続けていらっしゃるのである。
ところで、氏のコラムを読み解くと、私なりに以下の5つに分類することができた。
①まずどこも悪くなくても、毎年必ず「人間ドック」に行くこと。
年一回の「人間ドック」の受診は私も実践している。>>
何をするにもまず健康であることが「いの一番」であろう。そのためには早期発見・早期治療が欠かせないと思うのである。
②たえず色々な人と触れ合うこと。
私はこれを、「色々な情報を常に取り入れること」と読み解いた。
色々な人に出会い、様々な内容の会話や案件の処理をする中から情報も集積して行くわけだが、たしかに人と出会うことは凄く自分自身の高揚感と共に気持ちの刺激になる。
たとえば身だしなみから始まり、会話や商談内容の事前準備に至るまで様々な脳の部位が常に活性化され、脳の代謝が良くなり若さを保つことが容易に推測されるのである。
③何にでも好奇心を持つこと。
年齢を重ねるたびに、何かに対して好奇心を持つというのが難しくなって来る。
しかし些細な「疑問」や「気づき」を流してしまわず、探究心を持つことで新鮮な発見に出会うことが出来、それが喜びにもなるだろう。
それに一つの物事に対して突き詰めて考えることで、集中力も鍛えられるであろう。
④毎年、新しいことに挑戦すること。
高齢者に限らず若者にとってさえも、新しいことに挑戦するというのは、心身ともに多大な労力が必要である。
現状から一歩踏み出すには勇気も必要であるし、覚えることも一気に増えるし、途端に忙しくなる。
得るものも多い代わりに、苦労も増える。しかし「新しいことをやってやろう」という気持ちを持つことこそが、若々しくいられる源であると思うのである!
⑤人はいつでも生き方を変えられることを忘れないこと。
私はこれを、「自分自身を諦めないこと」と読み解いた。
もう今さら手遅れだ、もう今から生き方なんて変えられない・・・など、自分の置かれた環境や自分自身に対して諦念を持ってしまうと、体だけではなく心も老けてしまう。
自分を信じることで希望を持った生き方が出来、そのことが人を若々しくしているのではないだろうか?
日野原氏のコラムを1つずつ読み解いてみた訳ではあるが、書き終わって、「さて私自身はどこまで実践出来ているのだろうか?」という疑問符が頭の中をよぎった。
偉そうな事を書いてはいるが、どこまで実践出来ているか自分自身に点数を付けるとするならば、ギリギリ及第点だろうか!?
54歳の私が及第点なのだから、104歳の日野原氏がいかに若々しい精神の持ち主かよく分かる。
2016年
3月
13日
日
会社を変えた出会い 2
前回のつづき。
業界の先輩方のご厚情で、なんとか難燃アクリルをカネボウから仕入れることが叶った。また、毛布を製造する一環の過程の各部門の工場も確保することが出来、高校の先輩であるMさんが社長をしている㈱I社からは約2000枚のオーダーを頂き、いよいよ難燃毛布の製造が本格的にスタートした。
そうするとカネボウの難燃アクリル担当者が週に1~2回は当社を訪れて、品質と生産性向上の為に、私と一緒に関連工場の製造工程をチェックしてくれるようになった。
その担当者との物語を今回は書きたい。
その方はS・敏雄氏といい、確か昭和6年生まれだったと記憶している。
群馬大学工学部の母体となる桐生工業専門学校を卒業された後、昭和28年にカネボウ株式会社に入社され50歳まではカネボウ管内の各工場を技術者として技術畑専門に歩まれた。その間にも技術研鑽の為に、社費で東京大学に研究生として派遣されるほど優秀な方だった。
50歳を超えたころ、自分の技術のノウハウを営業で試してみたくなったそうで、当時のカネボウテキスタイル(株)の昭和58年の設立に合わせて、自ら伊藤淳二社長(当時)に「いち営業マンとして営業に出たい!」と手紙を書いて、営業畑(実際の着任先は日本合繊株式会社 当時カネボウの繊維原料販売会社)に出られた方である。
初めてお会いした時の印象は、人の3倍は喋ると言われている私がタマゲテしまう程のお喋りで、人の10倍は喋るような方だった。
当社が製造する難燃毛布の唯一の販売先である㈱I社は、約2000枚のオーダーの後も、しばしばオーダーを下さるようになっていた。
私が㈱I社に行く度に、カネボウの敏雄氏も同行してくれ、販売促進と品質説明を先方にしてくださった。私が喋る間もないほどに、熱心にトークを繰り広げる方であった。
長年に渡り技術者として培った知識に裏づけされた営業で、繊維業界新入生だった私には、学ぶところだらけであった。
私に、繊維の本質が何たるかを1から叩き込んでくれたのは、敏雄氏である。
当時の私の気持ちはすでに感謝を通り越していた。
「㈱I社に販売する毛布の原料分のみ」との約束で、カネボウから難燃アクリルを仕入れさせてもらっていたのだが、約2年が経過した頃、転機が訪れた。
この頃の日本経済はバブル崩壊後の「失われた20年」のまっただ中であり、経済の縮小と繊維産業従事者の高齢化に伴って、倒産や廃業や相次いだ時代であった。
そんなある日、敏雄氏より
「難燃毛布を作っていた会社が廃業するので、立花君のところで売り先を全部引き次いでくれるか?」と連絡があった。
私が一番先に思ったのは「お金」の事である。
当時、カネボウとの契約は、売り先限定の少量仕入れであり、新規取引ということもあって、現金先払いで原料を仕入れさせてもらっていた。
売り先を引き継ぎ、製造量が増えるとなると「多額の運転資金」が必要になってくるのである。生産体制については産地ということもあり、それなりの自信は有ったが、当時の私は20代半ばということもあり銀行からの融資も難しく、正直に敏雄氏に懐事情を説明することにした。
するとどうだろう!
「立花君は2年間の信用がもうあるので、支払いは月末締めの支払日起算120日の手形払いでいいよ」と言ってくれたのである。
こうして一気に売り先が増えたのだった。
この後も数年かけて似たような事情や新規営業(敏雄氏も販売促進で同行)で売り先が次々と増えていった。
敏雄氏が居てくれたからこそ、難燃毛布の製造販売を軌道に乗せることが出来たのである。
当時の私はこのような経緯で、諸先輩や業界の皆さまに支えられながら、半ば奇跡的な経緯もあり難燃毛布メーカーとしての創生期を形作ることが出来た訳である。
まさに「感謝」以外の何物でもないのである。
敏雄氏は60歳で定年を迎えられ、その後、3年間はカネボウで嘱託営業として勤められ、63歳で退職された。
退職後には当社のコンサルティング(私の指導役)&営業顧問として週2~3回の勤務で2年間、65歳まで来て頂いた。
またその後、オーストラリアに移住し、持ち前の英語力を駆使して携帯電話会社の役員をされていたらしいが、悔しいことに数年前に訃報をお聞きした。
2016年
3月
06日
日
会社を変えた出会い 1
私は20代初め頃、宅地建物取引主任者の資格を取り、不動産仲介業の会社を立ち上げた。会社と言っても社員は私1人である。
その当時父は父で、個人事業で丸竹繊維工業所(丸竹コーポレーションの前身)を営んでいた。
いずれ私が父の繊維業も引き継ぐことになるだろうという心積もりがあったので、不動産業の傍ら、繊維の仕事も手伝いながら勉強していた。
今回のブログは、その頃の話である。
ちなみに、不動産業については30代初め頃にバブル崩壊と共に自然に休眠状態になった。
丸竹繊維工業所は、大手アクリルメーカーのアクリル綿をメーカーから直接ではなく3次商社から仕入れて、それを外注の紡績工場で製糸後、泉大津産地の毛布を製造している織屋さんに販売することを主としていた。
川上から数えれば、5次下請けであった。
私は会社として利益をもっと増やせないかと考え、毛布を直接購入して、それを無謀にも消費者に直接販売しようと試みた。
結果は想像に難くなく、惨憺たるものであった。
若気の至りであったが、一人で材料仕入れ及び製造から直接販売まで出来る訳も無かった。
門前払いで鳴かず飛ばずの状態が続いていたが、不動産業での売り上げがあった為、切羽詰ることが無かったのが救いであった。不動産業の傍ら、諦めず毛布の営業を地道に続けていた。
毛布は全く売れなったが、しかしこの試みで、毛布を製造する一環の過程の各部門の工場に、それなりに知り合いが増えた。
中には、無鉄砲な私を面白がり、「また何かあったら言ってこい」と仰ってくれる方も少なからずいた。
そんな中、転機が訪れた。
あまりに毛布が売れないので、出身校である天理高校の先輩で天理市内において当時、天理教の宿泊施設に手広く寝具のリース及び販売を手掛けるI社のM社長の元を訪ねた。
するとM社長は開口一番
「もし君が難燃毛布を作れるなら、仕入れてもよいよ。うちの取引先は大規模宿泊施設だから、(財)防炎協会の認定を受けた難燃毛布しか扱えない」
とお言葉を掛けて頂いた。
私は根拠も何もないのに簡単に考えて
「わかりました!2~3か月待ってください。次に伺う時には難燃毛布を持ってきます。」と意気揚々と答えた。
しかし、ここからが大変であった。
翌日、当時の仕入れ先であった3次商社に、「難燃毛布を作りたいから、難燃アクリルを売ってください」とお願いすると、「当社では難燃アクリルは作ってない」との返答であった。
打撃は受けたが有り難いことに、「たしかカネボウさんは作っているはずだ」という情報を教えてもらった。
しかし私のような5次下請けの若造が、いきなり大企業のカネボウに「材料を売ってくれ!」と言っても相手にされるものではない。
そこで私は業界の先輩である故 小島清明氏(小島産業㈱元会長)に
「カネボウを紹介してください!難燃アクリルを買いたいのです!」とお願いした。
小島社長は「よし分かった」と快諾して下さったが、同時に、結果は難しいであろうことも教えてくれた。
ダメで元々ということで、カネボウの難燃アクリル原綿の担当者と懇意にしているU株式会社のKさんという方を紹介して頂いた。
さっそく翌日、Kさんの会社に伺うと、すぐにカネボウの担当者に電話を入れてくれたが、小島社長の予測通りにやっぱり「NO」であった。
当時、難燃アクリルを製造しているのは、カネボウ1社だけであった。
目の前でシャッターが下りた気分であった。
私はココで行き詰ってしまった。
しかし数日後、なんとそのKさんから「カネボウが売ってくれるそうだよ」との電話がかかって来た。
大変有り難いことにKさんは、プライベートな酒の席でカネボウの担当者と一緒になった時に、もう一度頼み込んでくれたそうだ。
業界として若手を育ててやろうというお気持ちもあったのであろう。「天理市の㈱I社に販売する分量のみ」という条件で、私は難燃アクリルを売ってもらえることになった。
このあと3日程で難燃アクリルが当社へ初入荷し、1か月を経たずして当社第一号の難燃アクリル毛布が完成したのである。
完成の翌日には㈱I社のM社長の元へ、まっしぐらに訪ねて行った。
「君みたいな新参者が、難燃の材料を仕入れるのは難しいだろうと思っていたから、きっと意気消沈して泣きながら来ると思ってたのに、よくやった!」
と誉めていただき、そしてその場で確か2,000枚のオーダーを頂いた記憶がある。
このような経緯で、諸先輩や業界の皆さまに支えられながら、半ば奇跡的な経緯もあり難燃毛布メーカーとしての第一歩を記すことが出来た訳である。
(会社を変えた出会い2へつづく)
2016年
2月
28日
日
臨機応変か、朝令暮改か
朝令暮改
私は自分のことを「石橋を叩いても渡らず、叩いている内に石橋が割れてしまう程の慎重な性格なのである。」とこれまで書いてきたが、
正確に言うと、それは「大筋の部分についてのみ」である。
旅で例えるのならば、旅をするかどうか、そして「する」と決まれば経由地と目的地は慎重に決めるが、そこに行くまでの手段は『臨機応変』で、「みんな!明日は自動車で行くぞ!準備しておけー!」と言っていても、「あれ?想像していたより道が狭くて運転しにくい!みんな!やっぱり自転車に乗り換えよう!」と言う風にコロコロ変化する。
計画から外れだした部分は、慎重に決めていた経由地であっても変える。
重要なのは目的地に到着することであり、大企業と違って臨機応変に事態に対応出来るのは中小企業のメリットである。
自分ではそれを「たえず見直し」として指針にしているが、朝令暮改に捉えられることも多い。
実際、ある仕事を手掛けた時、仕事の途中で作業効率の良い方法が閃き、手段を変えたのでA社というJV(共同企業体)業者から
「これまで他者と組んだ時とは違うやり方だから、やりにくい」と批判を受けた。
そう言われながらも、この後もう一度やり方を変えた。
「丸竹さんは、やり方が途中でコロコロと変わる!」と呆れられた。
しかし結果、この仕事は「無理して受けた納期が短い仕事」であったが、初期想定の3分の2の期間で納品することが出来た。
当社もA社も「短い期間内に納品する」という目的は同じだったから、たとえスタートを切った後であっても、目的を達成するための最善の方法が見つかったのならば、これまでのやり方に拘らず、見直した方が良いと私は考えている。
「途中でやり方を変えると朝令暮改な人間だと思われるかな」などと考えるようになってしまうと、仕事に対する瞬発力が無くなり、挑戦を躊躇するようになってしまう。
余談であるが、私は批判や意見・指摘・クレーム等を言ってくださる人が有りがたい!有り難い以上に感謝してしまう!紙面の都合もあるので、この思いについての詳細はリンク先(お節介な人ほど有り難い)をご参照頂きたい。
良いと思うことは全てやってみる
目的を達成するための方法であるが、たとえば「顧客を増やす」という目的を達成する為の方法を3つ考えついて実行し、3つとも成果が出たなんて事は、そうそう無い。
毎回100発100中なんて人は、天才的ビジネスマンだろう。
私は、「目的達成に良いと思うことは全部やってみよう!10のアイディアを実行したとして、そのうちの3つでも成果が出れば良い!」と考えている。
実際やってみて成果が出ないと判明すれば、次からやらなければ良いだけのことである。
最善に向けて見直し見直し
今、フラワーホームの目標の1つに「入居して良かったと入居者さまに思って頂ける施設づくり」がある。
そのために毎日、見直し見直しの連続である。ほんの一例を挙げると、
たとえば「グランドゴルフ練習場を作ってほしい」という入居者さまの声には、空きスペースを見直して早速芝生を植えた。
「ドッグランの場所を見直して、大きな花壇を作って憩いの場にする方が入居者さまに喜ばれるのではないか?」との声が上がり、確かに今の入居者さま達の生活状況から考えると、ドッグランより憩いの場の方が最善だと判断したので、その日のうちに必要な備品を発注した。
花壇やグランドゴルフ練習場を作る経費と、目的である「入居者さまの満足」を秤にかければ、すぐに答えが出た。「プールを作ってくれ」と言われれば、それはムリであるが、可能な限り最善を追求して行くつもりである。
関連記事:走りながら考える
2016年
2月
21日
日
人の意見を聞く
成長するチャンス
「自分の非を認める」という行為は、大人になればなるほどプライドや経験値が邪魔をして、簡単には自分の非を認めることが出来なくなる。
しかし、ちょっとした自分のプライドを守るために、非を認めず問題から目を逸らしてしまえば意固地になるばかりで、人としての成長はストップしてしまう。
逆に、自分に非があれば素直に認めて改善していくという行為は、人生を躍進させてくれるチャンスを内包したものであると思う。
また人様からの意見やアドバイスは、最終的にその意見をそのまま採用するかどうかはさておき、伸びるための手がかりや解決の糸口になることも多い。たとえ自分の考えとアドバイスの内容が違っていても、最善の道を選ぶための選択肢が増えたことは、プラスになってもマイナスになることはない。
だから素晴らしいチャンスの場だと捉えて、人様からの意見やアドバイスには聞く耳を持った方が良い。
上司になればなるほど、アドバイスを貰う機会も減って行く。イコール、成長するチャンスを人から貰う機会も減って行くということである。
とくに新人は、新人の特権だと思って、受動的ではなく積極的にアドバイスを求めて行くことが成長への近道である。
しかしただ漠然と話を聞いているだけでは、なかなか身に付くものではない。
事前に下調べ出来る内容ならば下調べをして、アドバイスという種を受けるための土壌を「自分で」準備しておかなければ、せっかくのアドバイスも芽が出ない。
ちなみに私自身も高齢者福祉の業界に関しては新人なので、積極的に多くの方に助言や教えを頂戴している。(心から感謝しています!)
アンテナを高く
アドバイスや意見は、なにも言葉だけではない。
お客様や入居者様が直接意見を下さることは多くない。けれども、ふと見せる表情や仕草、声のトーンで、その時どんな風に思っているのか察することは出来る。
ある瞬間の「心からあふれた笑顔」や「不安げな表情」など、言葉じゃない意見を汲み取るためには、アンテナを高くし自分自身の感受性を駆使していくしかない。
そして汲み取ったあとは、スピードをもって具体的な行動を起こすことが必要である。
2016年
2月
14日
日
担任の先生が毎日家にやって来る!
私の小学5年生と6年生の時の担任であるF谷T美子先生は、毎朝、我が家にやって来ては、私の「身だしなみと忘れ物のチェック」をしてくれるのである。
もちろん現在の話ではなく、その当時の話である。
私の母が病弱だったせいもあり、またF谷先生のご自宅から小学校までの経路に我が家があったこともあり、F谷先生は出勤前に私の家に立ち寄るのが日課になっていた。
目覚まし代わりになって、起こして頂いた日も何度かあった。
帰り道にも先生が立ち寄り「宿題のチェック」をしてくれるのである。
おまけに母の体調の悪い日には、晩御飯まで作ってくださった。
遠足の日は、出勤前にお弁当を届けてくださったこともあった。
さらに、週末には何度か先生のご自宅に泊まりに行かせて頂いたし、夏休みや冬休みには数日間に渡り連泊させて頂いたこともあった。
先生が、ここまで親身になってくださった理由の一つに、実は私の母も、F谷先生の教え子だったというのがあると思う。母だけではなく、母の姉も弟も、F谷先生の教え子だったのである。
F谷先生からしてみれば、かつての教え子だった女子生徒が母となり、闘病生活を送っているのを見かねて、なにかと私の世話をやいてくれていたのだと思う。
私の世話をやくことで、かつての教え子である母を助けてくれていたのだろう。
先生と母が二人で、なにやら長い時間、話し込んでいることが度々あった。今思えば、きっと母の相談に乗ってくれていたのだろう。
母にとって先生の存在は、どれほど大きく有り難いものだったか想像に難くない。
しかし先生にとってみれば、ご自分の家庭や教師の仕事を持ちながら、よその家庭の世話を焼くのはとても骨が折れたはずである。
それなのに当時の私は自分勝手なもので、先生の厚意に甘えながらも、「毎日が家庭訪問」の状態を心のどこかで煩わしくも思っていた。
『孝行のしたい時分に親はなし』ならぬ『孝行のしたい時分に先生はなし』で、私が先生の想いや苦労に気づくことが出来る年齢になる前に、悔しいことに、先生はこの世を去られた。
「面倒なことに巻き込まれたくない」と、様々な問題を傍観するだけの人達が増えた現代では、F谷先生のようなお人は、もうめったに居ないであろう。
これほど素晴らしい先生と、親子2代に渡り出会うことが出来たのは奇跡のように感じる。
F谷先生から数えきれないほどの恩を受けた。
しかし私という人間は、沢山の人に多大な迷惑をかけ、多くの人たちに手を差し伸べてもらいながら生きて来たんだなぁと改めて思う。
感謝するだけではいけない。
2016年
2月
07日
日
性善説と性悪説をビジネス目線で考える
長年、経営に携わっていると、年間を通して色々な会社の方から様々な新規案件(提案)が持ち込まれる。
そのような場合の対応の仕方は、一般的に2通りであろう。
一つは性善説で捉えて、好意的に相手と向き合うか、もう一つは性悪説で捉えて、相手を疑ってかかるかである。
前者の場合はビジネスチャンスを掴めるという利点があるし、後者の場合は、騙されたり失敗したりするリスクが少ないという利点があり、どちらの方が良い悪いというものでもないだろう。
私自身は、どちらかと言えば性善説論者である。
ただし、いきなりのテレアポ営業に関しては、まずお断りである。
それ以外の持ち込まれた案件(提案)に関しては、すべて善意と解釈し、その案件の可能性を追求する為に好意的に話を伺い前向きに考える。しかし当たり前の事だが、案件を色々な角度から検証し精査することは怠らない。
その結果、持ち込まれた案件の採用数は、正確に数えたことはないが、持ち込まれた数に対してたぶん100分の1にも満たないだろう。
採用数が少ないのは、精査した結果、相手方が信用に足らなかったという訳ではなく、私の性格からである。
私の表層の性格は「すぐ!すぐ!すぐ!今!今!今!」で、せっかちで短気なのであるが、深層の性格は「自分の背丈以上のことはしない」や「不安の哲学」を読んで頂ければ分かるように、石橋を叩いても渡らず、叩いている内に石橋が割れてしまう程の慎重な性格なのである。
案件を検証すれば必ず不安要素は複数出て来るものである。その不安要素をカバー出来る手立てを一つ一つ検証して行くが、カバーできる手立ても無いとなれば見送りとなるので、結局は上記のような採用数になってしまうのである。
さて、ここまで読んだ皆さんの疑問はコレであろう。↓笑
「騙されたことはある?」
答えは、お恥ずかしいが若い時に複数回ある。
これは、相手に悪気は無かったが結果的にそうなったという部類ではなく、初めから詐欺を企み近付いてきた相手に騙されたのである。
言うまでもないが、詐欺の輩ほど不安要素の無い良い話を提案して来るのである。
人を見る目が養われていなかったのが騙された原因であるが、これで私が性悪説に宗旨変えしていれば、私の場合、今は無かったように思う。
それと最後になったが、廃案にした案件については出来る限り、持ち込んでくれた相手方と面会して、お断りする具体的な説明を行うようにしている。
なぜならば、お断りするにしても善意で持ち込んでくれたのだから最大限の敬意を払うのが礼儀であるし、丁重にお断りしないと次に何かあっても声を掛けて頂けず、チャンスを逃してしまうかもしれない・・・と考えるからである。
2016年
1月
31日
日
スポーツ心理学
プレ・パフォーマンス・ルーティン
昨年末、ラグビー・ワールドカップ・イングランド大会で日本代表が、南アフリカ戦で歴史的な勝利を挙げ日本中の話題をさらった。
またこの日本代表を牽引していた五郎丸 歩選手のゴールポストを狙う前のあの独特なポーズのことは記憶に新しい。
あのポーズは、練習の時も、小さな試合の時も、世界大会の時でも、キック前にいつでも同じ行動をすることによって、緊張せず平常心を保ち、集中力を高める為の方法なのだそうで、そう言えばイチロー選手も打席に入ると毎回独特な動きを行っているし、今話題の日本人力士として10年ぶりに幕内優勝を果たした大関・琴奨菊も、取り組みの前に「琴バウアー」を行っている。
こういった行動は、スポーツ心理学では「プレ・パフォーマンス・ルーティン」と言うらしい。
そのような専門的な言葉は知らなくても、無意識のうちに自分流のルーティンをしている人も多いだろう。
今から37年前、私が天理高校柔道部員だった頃を思い出してみても、皆それぞれプレ・パフォーマンス・ルーティンのようなものがあった。
私は練習や試合前には必ず、柔道着の帯の端の糸を、無心で毟り取っていた。(写真>>私の帯だけが両端がボロボロである)。
後輩の正木嘉美選手(現:全日本柔道連盟評議委員、天理大学教授)に至っては、試合の度に、自らの頬を2~3発殴っていた。
毎回、鶴田浩二さんの人生劇場(や~ると思えば~♪)を聴いていた選手もいた。
プレゼンなどで緊張する人、仕事モードに入るまでの切り替えに時間がかかる人などは、自分流のプレ・パフォーマンス・ルーティンを作ってみるのも良いかもしれない。
根拠のある自信
話は再びラグビー代表に戻るが、スポーツ心理学を背景としたメンタル面強化を専門家が行い、「どうせ俺たちは勝てないんだ」といった諦めムードを「勝てるんだ」という自信に変えて行ったそうだ。
新聞によると、その自信の根底にあるのは、大会までの4年間、かつてないほどの厳しいトレーニングを強化合宿で積み重ねた経験だそうだ。
フィジカル面、スキル面で根拠のある自信が付いたからこそ、メンタルの強化が出来たということなのだろう。
以前にも書いたが>>、第一回全国高等学校柔道選手権大会の前夜、興奮と緊張と不安でなかなか寝付けない私たち選手に、松本薫先生(当時コーチ5段)が
「眠られんのやったら、別に眠らんでもええやないか!朝まで適当に遊んでたらええのや!お前らは、あれだけ練習したのやから、もう一日や二日くらい眠らんでも絶対に優勝できる!保証する。」
と声をかけてくれた。
私たち選手はその言葉に心から納得し、その後は安心して熟睡出来た。
当時はメンタルトレーニングという言葉や概念さえも、まだ無かった時代であったし、巷では「柔道一直線」桜木賢一、「巨人の星」星飛雄馬、「あしたのジョー」矢吹錠、「アタックナンバーワン」に代表されるように俗にいうスポ根アニメや物語が真っ盛りの頃で、やたら何事においても「根性」と「忍」を叩きこまれた時代であった。
しかし時代が変わっても、「厳しい練習がメンタルを強くする」という根本は変わらないのだなと、昔人間の私は少しホッとした次第である。
2016年
1月
24日
日
効率を上げて時間を作る
以前、「すぐ!すぐ!すぐ!今!今!今!」というタイトルの記事で、優先順位の高い仕事のみならず低い仕事も、時間を作ってしなければ、「積羽 舟を沈む」と同じで、後回しにした優先順位の低い仕事が、いつの間にか積もって大きな事態になり、会社を沈めてしまう可能性だってある・・・というような事を書いたが、
今回は、効率を上げて時間を作る方法について書いてみたい。
1、 完璧を目指すと踏み出せなくなる。まずはスタートを切ること
スタートを切るというのは、誰でも腰が重たいものである。
最初のスタート時点から完璧を目指そうとすると、ますます億劫になったり心配になったりして足が踏み出せなくなる。
なかなか思う通りにならないのが仕事である。
必要と状況に応じて軌道修正を繰り返しながら完璧を目指せば良いのだから、大筋が決まったら、先の先の子細をアレコレ考えるよりもスタートしてしまった方が勢いに乗って調子が出て来るものである。
2、ヤル気が起きない時は、まず簡単な短時間で出来る仕事から始めてみる
難しい時間のかかることから始めようと思うと、スタートを切ることさえ嫌になる。
難しい時間のかかることは、もともと頭を悩ませながら、半分は気が乗らずにこなしているものだから気が散りやすく、「ちょっと休憩にYouTubeでも見るか」なんて、時間の無駄遣いをしてしまった経験は皆あると思う。
とりあえずは簡単に短時間で出来る仕事からやり始めて、エンジンをかけることである。
調子が上がってくると、意欲が自然に湧いてきてスピードも上がり、難しい事でも不思議と苦にならずこなせるようになってくるものである。
それと、その場で簡単に済む仕事は面倒臭がらず、その都度、片づけておく習慣をつけることである。
3、その仕事の目標終了時間を決める
仕事の目標終了時間の設定を行うと、必然的に作業効率が上がる。
時間の経過を意識することで、余分な休憩時間を取ったりせず、集中して仕事を続けることが出来る。
4、それでも出来ない分量の仕事がある時は、人に任せる
予想外の予定が入ったり、予想以上に時間がかかってしまったりなど、どうしても間に合いそうにない仕事が発生することもある。
そんな時は迷わず人に任せることである。
但しここでの注意点は、その仕事の内容を自分自身が完全に把握出来ていなければならないということである。自分自身が把握出来ていない仕事を人に任せると不安にかられる。それ故、今こなしている仕事に対して集中することが出来ず、作業効率を下げてしまうことになる。
しかし自分自身が把握していれば、即座に仕事途中の相談にも乗れるし、イレギュラーが発生しても共に考える事が出来る。
私は不安症であるが、自分が完全に把握してからであれば、人に任せることへの不安はあまり感じなくなるのである。
5、忘れないためにメモを作っておく!
私は一日の仕事の終わりに、明日やらなければならないことを忘れないために、簡単なメモも作っておくようにしている。
明日一日のやらなければならない仕事のリスト(簡単な内容・時間・ポイント)をメモに書き出しておくと、翌日の朝、その日一日の仕事の優先順位を付けることが容易に出来る。
時間は意識して作らないと出来ないものである。
人在(なんとなく仕事をしている人)と人財(会社の宝のような人。自ら考え行動する人)の大きな差の一つは、時間を意識して効率的に仕事をしているかどうかである。
2016年
1月
17日
日
日本初 新しいサ高住のかたちに挑戦
第3次安倍改造内閣の目玉政策として掲げられた「1億総活躍社会」。
少子高齢化の流れに歯止めをかけ、誰もが活躍できる1億総活躍社会の実現を目指そうというこの政策と新三本の矢。
具体的な内容に関しては、それぞれ賛否があるだろうが、とにかく今すぐ何らかの策を実行しなければ、巷でも言われているとおり50年後の日本は無いと思うのである。
批判や検証や議論ばかりしている暇は、もうないのである。
主導するのは、もちろん国民の代表である政治家や官僚の方々であるが、官に一方的に頼るばかりではなく、我々国民や民間企業レベルでも、義務とは言わないまでも例え微力であっても「50年後の日本の為」に、なにか出来ることがあるのではないだろうか?
民間も国の政治の方向性に合わせて協力しなければ、日本が元気を取り戻す日など来ないと思うのである。
安倍総理の言葉の中にもあるように「みんながもう一歩前に出ることができるような日本に変えていかなければならない。」と私も強く感じた。
たとえば少し可笑しいかもしれないが、「たった一つのゴミでも、国民の一人一人が1つずつ拾えば、総数は1億2千万個拾えて、国が少し綺麗になる」のである。
政治家と国の方向性を選挙で選んでいるのは我々国民なのである。このことからしても、共に考えて共に行動に移すべきであろう。
ところで当社は、現在、テキスタイル製品の製造及びクリーニング関連と土木資材製造関連の2つの製造業をメインに、その他数種の事業を展開している。
そして新たな3つ目のメイン事業として、「将来の経営資産構築」と「約60年間に渡り当社の成長を支えて下さっている地元地域への貢献」を目的としてシニア事業部を開設し、高齢者様に安心して豊かな毎日を送って頂ける施設をコンセプトに、サービス付き高齢者向け住宅「フラワーホーム」を開設し、昨年11月5日からスタートを切った。
訪問看護や訪問介護のサービスもプレビュースタート(施設内)し、また本年2月には「フラワークリニック」を開設予定である。そして3月には施設外へ訪問サービス全般もスタートさせ、その先には介護タクシーやリハビリステーションも計画している。
話が逸れたが、「一億総活躍社会へ」という命題の下、当社に出来ることは?と考え、出た答えが2025年問題に象徴されるように超高齢者社会到来に起因する「高齢者の雇用問題」「労働力不足の問題」についてアクションを起こすことであった。
これが日本初の新しいサ高住のかたちに繋がるのだが、先にキャッチフレーズを紹介したい。
フラワーホームで暮らしながら、元気な日はアルバイトしませんか!
社会の為に再活躍
*施設及び関連工場にて軽作業アルバイト制度有り
あくまでも希望される方のみで、それも無理のない範囲で元気な日限定であるが、週2回程度で2時間ほど、サ高住の入居者の方たちを短時間アルバイトとして雇用する事業展開を始めた。
例えば散歩代わりのポスティングや、その他にも、1日3度提供させて頂いている食事の配膳補助、ホーム各所の掃除全般の補助、植物の手入れ全般の補助、ホームだけには留まらず本社や工場の掃除全般の補助、各製造部門の工場では災害用毛布の真空パック袋への毛布の挿入や梱包の補助、クリーニング製品の折り畳みや梱包の補助、土木資材の完成品のラベル貼りの補助もあり、他にもお願いしたいアルバイトは多数ある。
ポスティング以外は全て「補助業務」である。
当社は約20年前より、大阪府立砂川厚生福祉センターさまから障害のある方たちの雇用実績があり、現在も製造部門では障害のある方たちが多く働いてくれており、重度障害者多数雇用事業所の認定を受けている。
そのノウハウがあるため、高齢者の方たちにも安心して作業して頂ける内容の補助業務である。
この事業展開は、「高齢者の雇用問題」や「労働力不足の問題」へのアクションであると先に述べたが、実は別の思いもある。
フラワーホームのプロモーションビデオの中でも述べた言葉であるが
「高齢者様に、安心して豊かな毎日を送っていただきたい。そのためには尊厳を守り、自分らしく余生に希望を持って笑顔で過ごせる環境づくりが大切です。心はいつまでも若く、そしてたった一度しかない人生を豊かに味わい尽くす。その思いを胸に地域に根差した施設を目指します。」という当施設のコンセプトに通ずるのである。
以前にも書いたことだが(詳しく>>)
人間というのは、誰かの役に立ち、誰かに必要とされて、初めて自分の居場所を得たと感じ満足出来るものではないだろうか?
また「はたらく」とは個人が出来る社会貢献の総称ではないだろうか?
社会のために再活躍してもらうことで、おこがましいかもしれないが、入居者の方たちに生きがいのようなものを持って頂けるのではないだろうか?と考えたのである。
それに自分の力で金銭を稼ぐことが出来るというのは、自信になるのではないだろうか?
フラワーホームを開設してまだ期間はさほど経っておらず、入居者の方は未だ10数名ではあるが、個々の皆さんとお話をさせて頂いて健康状態をお聞きしても、すこぶるお元気な方がほとんどである。
入居者の中に、長年に渡り機械設備の製造業でお仕事をされて来られたNさんという80代の男性がおられる。
矍鑠(かくしゃく)とした方で、心安く話しかけて下さる方なので、その方にまず今回の事業展開についてお話をしてみると
「こんな歳でも社会に必要とされ働けるところが有り、社会で役立つのなら体の調子の良い日は働いてみたい」との言葉が返ってきた。
毎日2~3時間お散歩に出かけるとのことだったので、早速ポスティングのアルバイトをして頂いている。
すると早速効果はあり、Nさんがチラシを渡してくれたところから、数日を置かずして問い合わせが有った。またその翌日には、成約には至らなかったが、Nさん効果で見学者があった。
それからこんな事があった。
フラワーホームに行くと、そのNさんが私を見つけるなり
「仕事をしたお蔭で、なんだか元気が出てきた。社長さんにお礼を言いたい!社長さんはどの方ですか?」と冗談めかして声を掛けてきてくれた。
「社長はこの方です!」
と自分で自分を指さしながら言うと大爆笑になり、互いに顔を見合いながら肩を叩きあった!!
Nさんの顔が生き生きとしていた。
私はこの時、たまらなく嬉しかった。Nさんもすごく喜んでくれた。
元気な日はアルバイト
もしもの時にも、医療・看護・介護が連携した安心のサポート体制
この事業展開は日本で初めての取り組みであり、これから先、試行錯誤もするだろうが、当社の企業理念にもあるように「社会的存在価値のある企業になろう!社会から必要とされ歓迎される企業になろう!」という思いを新たにすると共に、私や当社の社員・スタッフたちが精進を重ね、この新展開を成功させることで、「三方良し」の根幹に少しでも近づけると確信した次第である。
2016年
1月
03日
日
業界の大先輩からのバトン
2016年 新年あけましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になり誠に有難うございました。
賜りましたご厚情に深謝致しますと共に、
本年も変わらぬご指導ご厚情のほどよろしくお願い申し上げる次第であります。
さて、年末の締めのブログに書きましたように「商売は感謝に始まり感謝に終わる」という想いから、本年第1回目のブログは「感謝」をテーマに書いてみたい。
実は昨年の春先に、若い頃からたいへんお世話になった恩人と言っても過言ではないS毛織のN専務という方がお亡くなりになられた。
急逝されたということもあって、N専務についぞ感謝の想いを伝えることは出来なかった。
それまでに何度も二人で話す機会はあったのだが、言いそびれている内に突然の悲報に接することになった。
最後に会ったのは亡くなられる1週間前、最後に電話でお話ししたのは亡くなられる2日前である。
なぜあの時の最後の電話で、たとえ一言でも感謝の気持ちを言えなかったのだろうかと今も悔やんでいる。
N専務との出会いは、これまでにも書いたが、
突然訪ねて行った若い無礼な私に、N専務は多大なるご厚情で力を貸してくださった。
これは出会いから20年以上経ったつい数年前に、冗談とも本気ともつかない調子で言われたことであるが、私を見た最初の印象は「生意気そうな粗野な若者」だったらしい。(冷汗)
図々しくも突然やって来て自説を延々と喋りまくる生意気な若い経営者を見ているうちに、
「話の内容はまだまだであったが、面白そうな奴だなと興味が湧いた。だから力を貸そうと思った。」と当時の気持ちを教えてもらった事があった。
未熟な私に力をお貸し頂き商売の道を広げてくれたN専務の当時の年齢を計算してみると、ちょうど今の私ぐらいの年齢である。
N専務は私という人間を信用してくださり、出会ってスグから相当量の仕事をくださった。
しかし未だに私はN専務にお礼が出来ていないし、感謝の言葉も伝えられないままである。
今にして思うことが一つある。
それはN専務が、出会いからお亡くなりになられるまでの期間のすべてを費やして、私に何かを託そうと思ったのではないだろうか?ということである。
というのは、以前受けた社長TVという番組の私に対する応援メッセージ欄にN専務が
「地場産業の発展にご尽力頂きありがとう。」と書き残してくれているのである。
しかし、まだまだ、ほとんど尽力など出来ていない私に対してである。
なぜこのようなメッセージを残してくれたのだろう?と推測すると「地場産業の発展に尽力すること」を私に託してくれたのかもしれないと思うのである。
もしそうであるならば私はその思いに応えたい。
しかしどうやって・・・?
それがぼんやりとしか分からず確証を得ることも叶わない今では、N専務の面影を心の中に浮かべて自問自答を繰り返すことぐらいしか出来ない。
しかしある時、ふと思ったのである。
「地場産業を営む自分より若い世代の人達を応援させて頂くこと」イコール「地場産業の発展に尽力すること」になるのではないだろうかと?
N専務が私にしてくださったことを次に繋げることが、N専務への感謝やお礼の気持ちを示すことになるのではないだろうかと思ったのである。
私には、いや丸竹には、目標が沢山ある。
「すべての社員やスタッフが物心両面で豊かな生活を送り、自分の将来に安心感を持てるようにすること」
「信頼される会社になること」
「社会から歓迎される会社になること」
「自社だけではなく、自社に関わる全ての人達の繁栄を追求すること」
「すべての社員やスタッフが自分に社会的価値を感じられる会社になること」
「ご指導ご支援ご協力してくださる皆さまの「義」に対して社会貢献という形で恩返しすること」
そして「地場産業の発展に尽力すること」
目標は沢山あっても、目標達成の方法は同じで、道は一つだと思っている。
その方法とは、
三方良しの精神を持って、社員やスタッフ皆が、それぞれ与えられた場所で最善を尽くすことである。
私は社長として先頭に立って皆を牽引して行く覚悟である。
その覚悟そして感謝の思いから新年最初の記事は、業界の大先輩であるN専務の追悼記事にさせて頂いた。
皆様方のご期待に添えられるよう、社員スタッフ一丸となって、より一層努力する次第であります。
本年も変わらぬお引き立ての程よろしくお願い申し上げます。
皆様のご健勝とご発展をお祈り申し上げます。