2016年7月、相模原の障害者施設で重度障害者ばかりを狙った痛ましい殺傷事件が起きた。
容疑者は施設の元職員で、「障害者がいなくなればいい」といった趣旨の供述をしているという。
私は障害者の雇用や高齢者施設の運営などハンディキャップがある方々と関わる事業をさせて頂いているので、ここに意見を書いてみたい。
現在、健常者として生きている人々は、たまたま偶然に健常者として生まれただけで、誰でも約0.2%の確率で(文献により差異有り)先天性の障害をもって生まれてくる可能性がある。
現在、健常者の方も事故や病気で中途障害者になる可能性がある。高次脳機能障害の方だけでも全国で約50万人以上、そして少なくとも年間1万人以上、毎年増え続けているのが現状だそうだ。
運よく健常者として人生を生きても、人間だれもが必ず老い、体が不自由になり、一人で生活するのが難しくなる。
他者からの援助が無ければ生きていけなくなる日が、いずれ必ず来るのである。寝たきりの障害者や高齢者の姿は、皆の「行く道」なのである。
花でも木でも虫でも動物でも人間でも、この世に生まれ出た限りは「生きたい」と考える。
いま現在「生きたい」と思ってない人でも、本当に死ぬような場面に直面すれば「生きたい」と思うはずである。なぜなら「生きること」はこの世に生まれた者の「役割」だからである。
寝たきりのような重度の障害がある人も精一杯その「生きる」という役割を果たしているのである。
健常者は障害者よりも恵まれて生まれて来た分、「生きる」という役割以外にも、多くの役割を背負うことになる。
私は子供の時に母から
「克ちゃんは満足に生まれて来たのやから神様に感謝しいね。健康に生まれて来たからには、満足じゃない人が困っているのを見つけたら、親や兄弟・親戚に関わらず他人さんであっても助けなあかん!」と教えられた。
身内や他人そんな内外は関係なく、人間という1つのカテゴリーの中で、健常者がハンディキャップを持つ人たちを支え、生きやすいように環境を整えてあげるのは、現在 健常者である者の責任であると思う。
動物ならば、強い者が生き残り、弱い者は淘汰されるだろう。
しかし人間はそうではない。人間は自分よりも弱い者からも学ぶことが出来る。他者を尊重することが出来る。思いやることも出来る。
弱い者が淘汰される世界ならば、人間は動物と同じじゃないか。
健常者は自分一人の力で生きている・・・という風に思いがちだが、決して一人では生きて行けない。周囲に支えられながら初めて生きて行ける。私はそれが分かるまでに40年かかった。一人では生きていけないのは健常者も障害者も同じなのだ。
話は少し逸れるが、私が子供の頃、事の子細は分からないが、祖母のところにお金を持ってお礼に来た人があった。祖母は、そのお金を一度は全額受け取り、袋を入れ替えて帰りのお土産代としてまた全額その方に手渡した。
私は祖母に「おばあちゃん、貰っといたらいいのに!」と言うと、祖母は
「あの人からお礼を貰ったら神様からのご褒美は貰えなくなるから頂かなかったんや!」と答えた。
私は当時、もったいない事をするおばちゃんやな!と思ったのを記憶しているが、今は理解できる。
人様から頂くお礼よりも、神様から頂く「徳」を祖母は積みたかったのである。
徳を積むことは結果的には自分の幸せに繋がっていく。
社会での自分の役割を考え、それを果たすことで徳を積むことが出来ると思う。
実行するかどうかは本人次第だが、健康な者は、そうでない者を手助けする役割(徳を積む機会)を神様から与えられていると思う。
幸い私は健康に生まれ、会社を経営する立場にいる。
自分の社会での役割を考え、それを果たしながら生きて行くことが、きっと結果的には社員や周囲の人をそして自分自身を幸せへと導いてくれるはずであると思う次第である。