私は20代初め頃、宅地建物取引主任者の資格を取り、不動産仲介業の会社を立ち上げた。会社と言っても社員は私1人である。
その当時父は父で、個人事業で丸竹繊維工業所(丸竹コーポレーションの前身)を営んでいた。
いずれ私が父の繊維業も引き継ぐことになるだろうという心積もりがあったので、不動産業の傍ら、繊維の仕事も手伝いながら勉強していた。
今回のブログは、その頃の話である。
ちなみに、不動産業については30代初め頃にバブル崩壊と共に自然に休眠状態になった。
丸竹繊維工業所は、大手アクリルメーカーのアクリル綿をメーカーから直接ではなく3次商社から仕入れて、それを外注の紡績工場で製糸後、泉大津産地の毛布を製造している織屋さんに販売することを主としていた。
川上から数えれば、5次下請けであった。
私は会社として利益をもっと増やせないかと考え、毛布を直接購入して、それを無謀にも消費者に直接販売しようと試みた。
結果は想像に難くなく、惨憺たるものであった。
若気の至りであったが、一人で材料仕入れ及び製造から直接販売まで出来る訳も無かった。
門前払いで鳴かず飛ばずの状態が続いていたが、不動産業での売り上げがあった為、切羽詰ることが無かったのが救いであった。不動産業の傍ら、諦めず毛布の営業を地道に続けていた。
毛布は全く売れなったが、しかしこの試みで、毛布を製造する一環の過程の各部門の工場に、それなりに知り合いが増えた。
中には、無鉄砲な私を面白がり、「また何かあったら言ってこい」と仰ってくれる方も少なからずいた。
そんな中、転機が訪れた。
あまりに毛布が売れないので、出身校である天理高校の先輩で天理市内において当時、天理教の宿泊施設に手広く寝具のリース及び販売を手掛けるI社のM社長の元を訪ねた。
するとM社長は開口一番
「もし君が難燃毛布を作れるなら、仕入れてもよいよ。うちの取引先は大規模宿泊施設だから、(財)防炎協会の認定を受けた難燃毛布しか扱えない」
とお言葉を掛けて頂いた。
私は根拠も何もないのに簡単に考えて
「わかりました!2~3か月待ってください。次に伺う時には難燃毛布を持ってきます。」と意気揚々と答えた。
しかし、ここからが大変であった。
翌日、当時の仕入れ先であった3次商社に、「難燃毛布を作りたいから、難燃アクリルを売ってください」とお願いすると、「当社では難燃アクリルは作ってない」との返答であった。
打撃は受けたが有り難いことに、「たしかカネボウさんは作っているはずだ」という情報を教えてもらった。
しかし私のような5次下請けの若造が、いきなり大企業のカネボウに「材料を売ってくれ!」と言っても相手にされるものではない。
そこで私は業界の先輩である故 小島清明氏(小島産業㈱元会長)に
「カネボウを紹介してください!難燃アクリルを買いたいのです!」とお願いした。
小島社長は「よし分かった」と快諾して下さったが、同時に、結果は難しいであろうことも教えてくれた。
ダメで元々ということで、カネボウの難燃アクリル原綿の担当者と懇意にしているU株式会社のKさんという方を紹介して頂いた。
さっそく翌日、Kさんの会社に伺うと、すぐにカネボウの担当者に電話を入れてくれたが、小島社長の予測通りにやっぱり「NO」であった。
当時、難燃アクリルを製造しているのは、カネボウ1社だけであった。
目の前でシャッターが下りた気分であった。
私はココで行き詰ってしまった。
しかし数日後、なんとそのKさんから「カネボウが売ってくれるそうだよ」との電話がかかって来た。
大変有り難いことにKさんは、プライベートな酒の席でカネボウの担当者と一緒になった時に、もう一度頼み込んでくれたそうだ。
業界として若手を育ててやろうというお気持ちもあったのであろう。「天理市の㈱I社に販売する分量のみ」という条件で、私は難燃アクリルを売ってもらえることになった。
このあと3日程で難燃アクリルが当社へ初入荷し、1か月を経たずして当社第一号の難燃アクリル毛布が完成したのである。
完成の翌日には㈱I社のM社長の元へ、まっしぐらに訪ねて行った。
「君みたいな新参者が、難燃の材料を仕入れるのは難しいだろうと思っていたから、きっと意気消沈して泣きながら来ると思ってたのに、よくやった!」
と誉めていただき、そしてその場で確か2,000枚のオーダーを頂いた記憶がある。
このような経緯で、諸先輩や業界の皆さまに支えられながら、半ば奇跡的な経緯もあり難燃毛布メーカーとしての第一歩を記すことが出来た訳である。
(会社を変えた出会い2へつづく)