私の小学5年生と6年生の時の担任であるF谷T美子先生は、毎朝、我が家にやって来ては、私の「身だしなみと忘れ物のチェック」をしてくれるのである。
もちろん現在の話ではなく、その当時の話である。
私の母が病弱だったせいもあり、またF谷先生のご自宅から小学校までの経路に我が家があったこともあり、F谷先生は出勤前に私の家に立ち寄るのが日課になっていた。
目覚まし代わりになって、起こして頂いた日も何度かあった。
帰り道にも先生が立ち寄り「宿題のチェック」をしてくれるのである。
おまけに母の体調の悪い日には、晩御飯まで作ってくださった。
遠足の日は、出勤前にお弁当を届けてくださったこともあった。
さらに、週末には何度か先生のご自宅に泊まりに行かせて頂いたし、夏休みや冬休みには数日間に渡り連泊させて頂いたこともあった。
先生が、ここまで親身になってくださった理由の一つに、実は私の母も、F谷先生の教え子だったというのがあると思う。母だけではなく、母の姉も弟も、F谷先生の教え子だったのである。
F谷先生からしてみれば、かつての教え子だった女子生徒が母となり、闘病生活を送っているのを見かねて、なにかと私の世話をやいてくれていたのだと思う。
私の世話をやくことで、かつての教え子である母を助けてくれていたのだろう。
先生と母が二人で、なにやら長い時間、話し込んでいることが度々あった。今思えば、きっと母の相談に乗ってくれていたのだろう。
母にとって先生の存在は、どれほど大きく有り難いものだったか想像に難くない。
しかし先生にとってみれば、ご自分の家庭や教師の仕事を持ちながら、よその家庭の世話を焼くのはとても骨が折れたはずである。
それなのに当時の私は自分勝手なもので、先生の厚意に甘えながらも、「毎日が家庭訪問」の状態を心のどこかで煩わしくも思っていた。
『孝行のしたい時分に親はなし』ならぬ『孝行のしたい時分に先生はなし』で、私が先生の想いや苦労に気づくことが出来る年齢になる前に、悔しいことに、先生はこの世を去られた。
「面倒なことに巻き込まれたくない」と、様々な問題を傍観するだけの人達が増えた現代では、F谷先生のようなお人は、もうめったに居ないであろう。
これほど素晴らしい先生と、親子2代に渡り出会うことが出来たのは奇跡のように感じる。
F谷先生から数えきれないほどの恩を受けた。
しかし私という人間は、沢山の人に多大な迷惑をかけ、多くの人たちに手を差し伸べてもらいながら生きて来たんだなぁと改めて思う。
感謝するだけではいけない。