今年は戦後70年の節目に当たる年という事もあって、私の購読している3紙(産経、読売、日経)も終戦記念日前後には連日のように、「平和の大切さと戦争の悲惨さ」を訴えていた。
ところで私が小学生の頃に「戦争を知らない子供たち」という歌がたいへん流行していた。
その当時、大好きだった怪獣映画「ゴジラ対ガイガン」の挿入歌にもこの歌が使われていたので今でも口ずさむことが出来る。
♪戦争が終わって僕等は生れた
♪戦争を知らずに僕等は育った
♪戦争を知らない子供たちさ~
私もこの歌の通り戦争を知らない。8月15日と言えば「終戦記念日」よりも先に「お盆」をイメージしてしまうほど、戦争とは無縁で、戦争のことについて真面目に考たことの無い子供であり若者であった。
戦争とは現実味の無い、どこか遠い別世界の物語のような気さえしていた。
そんな私が初めて戦争を間近に感じるきっかけとなったのは、20代の時に見た中井貴一氏が主演の「ビルマの竪琴」という戦争の映画である。
映画の終盤のワンシーンに、ビルマの僧衣を着た主人公の水島上等兵が、山野を一人で延々と歩くシーンがある。
その道々で水島の目に飛び込んでくるのは、無数の日本兵の遺体だった。
無残に朽ち果てて、色々な虫がたかり、ウジ虫が体のあちこちから湧く日本兵たちの遺体の山。
日本より遠く離れた異国の地ゆえ葬る人もおらず、ましてや供養する人もいないのである。
水島は衝撃を受け、この方たちの遺体を葬らずに自分だけが日本に帰ることを申し訳なく思い良しとせず、この地に留まり生涯を掛けて供養することを決心したのである。
そのため水島は、「一緒に日本へ帰ろう」と訴える仲間の隊員たちのもとから姿を消した。
帰国の為、船に乗り込む隊員たちのもとにビルマ人からインコが届けられた。
そのインコの送り主は水島であった。
インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と鳴いた。
ビルマにたった一人で残った水島は出家し、本物の僧侶となったのである。
私はまず、映し出される大量の死体のリアルさに驚き、言葉を失った。
それから「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」との言葉から、水島が一切の迷い無くビルマに残る決心をしたのではなく、「帰国したい想い」と、「自分の使命と義理人情を果たしたいという想い」との狭間で葛藤しながら、それでもやはりビルマに残る道を選択したことに心を打たれ、そしてとても納得した。
というのも私は子供の頃から、父方の祖母に連れられて週に1回ペースでお墓参りに行っていた。そのためか子供の頃なぜか「先祖供養と僧衣」に憧れて、将来、お坊さんになりたいと思ったこともある。そのような訳もあってか、この映画を見た時、遺体の惨たらしさに戦争の悲惨さを覚えると共に、もし自分が水島であっても、同じことをしただろうという確信にも似た衝撃が心に走った。
私は幾らか昂奮しながら、映画の中の「日本兵の死体の山」の話を母方の祖父に伝えた。
すると祖父は、たった一言
「それくらいの事は普通に毎日あった」と呟き、沈痛な表情で宙を見つめた。
「えっ?!」
と私は思わず目から鱗が落ちてしまうぐらいの驚きであった。
祖父がラバウルへ出征しS21年に帰国した話は知っていた。
それでもやはり「私が想像する祖父や祖母たちが経験した戦争」と「テレビ画面で見る戦争」とは同じものとは思えず、戦争映画を見ても「ソレはソレ」「コレはコレ」で、今目の前にいる祖父とは結び付かなかったのである。
しかし違うのである。
戦争を知らない世代の人間には「映画の中の話」としか思えないような出来事が、当たり前に毎日起こっていたのが戦争なのだ。
押し黙った祖父の姿を見て、私はようやく初めて戦争を「現実のもの」として感じることが出来、
恐ろしいと思った。