ある日のこと、夜8時過ぎに会社の電話が鳴った。
その日は社内にはもう私しかいなかった。
仕事の電話にしては時間が遅いので間違い電話の類ぐらいに思い、もう出ないでおこうと思っていたが、鳴り続けるベルを聞いてうちにふと不思議な予感がし電話に出てみることにした。
受話器から聞こえて来た声は、紳士的な話し方のご老人のものであった。
「貴社の毛布をAホテルで使いましたが、すごく暖かく手触りも良い。」と思わず嬉しくなるお褒めの言葉であった。
あまりの丁寧な口ぶりに一瞬、ミシュランのように匿名で何か調査でもしているのか?と怪しんだが、よくよく聞いてみると「ひいては家庭でも使いたいのでぜひ購入したい。1枚だが個人でも販売していただけるのか?」という事であった。
当社の全製品はPL製造物責任法に基づき連絡先を表示しているので、それをメモでもして電話を掛けて来てくれたのであろう。
しかし当社は代理店様に販売をお願いしている関係上、一般の方への販売はしていない。
代理店様を通さず当社から直接販売するのは、一枚であろうとルールを破る事になってしまう。
悩みながらも断るつもりでいたが、その紳士が言葉を尽くして当社の毛布を褒めて下さるので、私の口の方もついつい滑らかになって気がつけば長時間話し込んでいた。
会話の中で相手の男性が80歳前後の年齢であることを知った。
高齢の方がわざわざ毛布を買いに外出するのは難儀であろうし、そもそも当社の毛布は業務用毛布なので、その老紳士が一般商店で手に入れることは不可能であろう。
ルールを破るわけには行かないので販売することは出来ない、しかし差し上げることなら出来る。
私はその趣旨と販売出来ない理由を説明し、翌日プレゼントとして毛布を発送させて頂いた。
しばらくして墨字で書かれた封書が私宛に届いた。
くだんの老紳士からの礼状である。
鮮やかな筆さばきの墨字もさることながら過去仮名遣いで書かれた見事な文章と、律儀な人となりに驚いた。
また別便でミカンも送って来て下さった。
製造業としての冥利に尽きる瞬間であった。
この手紙は今も大切に金庫にしまい、たまに取り出しては読み返えしたりしている。
余談だがこの後すぐに、例のAホテルから「株主様からの推薦が有り」とのことで毛布の見積もり依頼が舞い込んできた。
すぐさま代理店を紹介させて頂き大量受注を頂戴した。
単なる偶然の一致だろうか?
それともやはりあの老紳士が推薦して下さったのだろうか?
連絡をして真偽を確かめたい衝動に駆られたが、無粋だと考え直して心の内で感謝するだけに留めた。
この老紳士との出来事は良い物作り、そして三方良しの商売を改めて考える素晴らしい機会となった。