人生のターニングポイント

私は、中学校を卒業したら高校には行かず働こうと決めていた。

 

仕事が忙しく殆んど家に居ない父親と、入退院を繰り返す母親との家庭だった為、私は少しでも早く働いて自分でお金を稼ぎたいと思っていた。

実際小学5年生の時から知り合いの店を手伝って、少なくは無いお金を貰うようになっていた。そうなると益々仕事を得て自立したいと思うようになっていた。

 

話は一旦変わるが、私が小学6年生のころ泉南市に初めて泉南市柔道協会が出来た。

先生の名は金村秋男先生 (当時4段)といった。

金村先生は、町でうろついている体の大きな私を見つけては「おい!柔道習ってみないか?」とよく声をかけて来た。

しかし悪ガキだった私はその度に「柔道は突きや蹴りが無いからケンカの役に立たん。興味もない!」と失礼にも先生に暴言を吐いていた。

そのうち先生は「今日は柔道の話やない、何か食わしたろか」と言って、ジュースやたこ焼きをよくご著走してくれるようになった。

先生がたまに思い出したように私を柔道に誘っても、相変わらず断り続けていた。

そんな事が約3年に渡り続き、私は中学2年生になっていた。

そのころには、もうかなり先生にジュース代やたこ焼き代のツケがたまり、勧誘を断りきれなくなり始めていた。

そこで「1回だけで良いから道場に来い!」言われ、「1回だけ行く」という約束で道場を訪ねることになった。

 

しぶしぶ道場へ訪ねて行くと、柔道着に着替えるように言われ、訳も分からないまま着替えると、今度はいきなり初段相手に試合をするように言われた。

対戦相手は偶然にも同じ中学校の同級生であった。

射手矢 岬君というその同級生は、私より20cm以上も小さく体重もずっと軽い。

柔道は知らないが力ずくで射手矢君に勝てると思った。

 

しかし結果は悲惨なもので、私は立つ暇もないないくらいに射手矢君に徹底的に投げ飛ばされ続けることになった。30分後には呼吸もままならず、疲労困憊でもう立っていることさえ出来なくなった。

実際には、もっと短い時間だったかもしれないが、とにかく私はボロ雑巾のように畳に放り出されていた。

自分の頭すら上げられないほどクタクタであったが、心の内では火が付いていた。

惨敗したまま終わるのは絶対に嫌であった。

私は倒れたまま「俺は高校には行かん!だから中学卒業するまでの間、俺に柔道やらせてください!!」「射手矢に勝つまでやります!!」と叫んだ。

先生は「おう!」と手を上げてこちらを見てにっこりと笑った。

その顔を見た瞬間、まんまと先生の戦略に乗せられた事を知った。

 

後で知ったことであるが、金村先生は全日本柔道選手権優勝者の松阪猛先生と競い合い「幻の全日本チャンピオン」と言われていた凄い先生だったのである。

ちなみに私を投げ飛ばし続けた射手矢岬君は、現在では東京学芸大学教授で全日本柔道連盟強化委員(五段)をされている。

 

中学2年の6月頃から始めた柔道だが、1か月で1級になり、半年を過ぎる頃には初段を取った。中学3年になり6月に大阪府中学生大会で決勝まで進み2位になった。

近畿大会にも出場することになりベスト8になった。

近畿大会が終わると近畿圏内の有名校や強豪校から、あちこちとスカウトが来た。

しかし私は中学を卒業後は働くつもりでいたし、そうは言っても柔道を続けて自分を試したい気持ちもあり、どちらにも踏ん切りがつかないでいた。

そんな時、柔道の名門 岸和田市立春木中学監督 曽田幸雄先生(当時5段)の紹介で奈良県天理高校からスカウトの加藤秀雄先生(当時6段)が自宅に来られた。

その当時の天理は、連続高校柔道日本一の名門中の名門であった。

日本一の学校で柔道をやれるのならばと思い、私の心は決まった。

こうして天理高校へと進学することになり、その後人生最大の厳しさと不条理、柔道の奥深さを学ぶことになった。

 

今、自分の周りを見渡せばプライベートでも仕事関係でも、柔道が縁となって結んでくれた人たちのなんと多いことか。

その縁の中には、私の人生に大きな影響を与え、私が人生の道しるべとしている人もいる。

もしも金村先生が、あんなにも熱心に柔道へと誘ってくれなければ、私はきっと当初の考え通り中学を卒業後に働きに出て、きっと今とは全然違う人たちと付き合い、全然違う人生を歩んでいただろう。

もっと考えれば、私がたこ焼きのツケを溜めてなければ、柔道場に行くことも無かっただろう。

 

人生とはなんと奇妙で面白いものだろうか。