スポーツとは誠に不条理なものである。
血の滲むような努力をしても、その努力が結果に反映されるとは限らない。
スポーツの中でも特に相手と直接対戦し勝敗を決める対人競技は、不条理の極みと言ってもいいぐらいだ。
私が学生時代に取り組んでいた柔道などもその典型的な例だ。
努力の積み重ねで、確かにある一定のところまでは登って行ける。
けれども血の滲むような努力を重ねた者同士の戦いでは「運」が勝敗を分けたりする。
運は自分でコントロール出来るものではないのに、運が結果を決めるだなんて、誠に不条理な話である。
けれどもそれでいいのだ。
学生時代に熱心にスポーツに取り組む者は数多く居ても、プロのスポーツ選手になる者はほんの一握りである。
学生スポーツで重要なのは、努力が実る喜びを知る事はもちろんとして、自分の限界まで努力をし「心」「身」ともに厳しく鍛えることにある。
そしてその最大限の努力が結果に反映されない不条理さを学ぶことも重要な事じゃないだろうか。
一歩社会に出れば不条理なことだらけである。
現代の社会は激烈な競争社会。グローバル化も相まって社会はまさに戦国、弱肉強食の時代である。
そんな中でも私が何とか中小企業の態を為し、どうにか今日までやってこれたのは、学生時代に柔道の厳しい修錬を経験したことや、社会で通用する不条理を学べたことが大きな一因になっていることは自分自身にとって疑う余地がない。
つまり柔道により競争社会を生き抜く「心」が作られたのだ。
偉そうな事を書いている私だが、もちろん学生時代は勝つことのみが目標で、それ以外の意義を見出すことは頭に無かった。
優勝して自己目標を達成するという第一の意義以外にも、社会を生き抜く心を作るという第二の意義がスポーツにはあるという事を、社会に出てからようやく色々な場面で自然に、また必要に迫られて気付くことになった。
この記事を書きながらこんな言葉を思い出した。
「精力善用」(精力最善活用)
「自他共栄」(自他融和共栄)
講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範の言葉である。